「スローフード」
「スロー(slow)」というのは「ゆっくり」という意味ですよね。そこに「フード(food)」という「食べ物」を意味する言葉がついています。「スローフード」というのは、食べ物をじっくり見直すことから、生活に豊かさをもたらそうという運動のことを指しています。1980年代にイタリアで始まった運動なのです。その後ヨーロッパの各国をはじめ、日本も含めた160カ国以上に広まりました。きっかけとなったのは、イタリアの中心地ローマに、世界的に有名なハンバーガーチェーン店が進出したことでした。注文すればすぐに食べられる「ファストフード」のお店です。「ファスト(fast)」というのは「迅速な」という意味ですよね。よく間違えられるのですが「第一の」という意味の「ファースト(first)」ではありませんからね。それでも、20年前の調査(NHK放送文化研究所)では、「ファーストフード」という表記を選ぶ人が72%に達していましたよ。現在では、他にも「ファストファッション(fast fashion)」といった新しい用語が誕生したこともあり、「ファストフード」という表記が定着しているように思います。イタリアでは「子どもたちからママのパスタを取り上げるな!」といったスローガンを掲げて、ファストフードチェーン店に対して反対運動が展開されたのでした。そこで「ファストフード」に対置されたのが「スローフード」という考え方だったのです。
伝統的な食材や、その土地ならではの素材を活かした食べ物をとることを、「スローフード」は推奨しています。たとえば日本なら、お米やみそ、しょうゆなど伝統的な食材がたくさんありますよね。また、それらを活かした郷土料理もバラエティー豊かです。さらに、お正月をはじめとして、年中行事の際に食べられる料理にも特徴があります。「旬」の食材という考え方があり、その時、その場で食べることに価値をおいてきたという伝統があるのです。こうした「地域の伝統」に根ざした食文化を守り、次世代へとつないでいくことを重視しようという運動なのですね。
こうした「ファストフード」「スローフード」という考え方を、独自の観点で捉えなおしたのが哲学者で東京大学教授の國分功一郎先生です。著書である『暇と退屈の倫理学』の中で先生はこうおっしゃっています。
「ファストとかスローとかいった性質は、その食事の含む情報量が多いか少ないかによって決定される。」「ファスト・フードは情報量が少ない食事、すなわちインフォ・プア・フードと呼ばれるべきであり、スロー・フードは情報量が多い食事、すなわちインフォ・リッチ・フードとと呼ばれるべきである。」と。これはどういう意味なのでしょうか?
國分先生は具体的な例を挙げて説明します。「たとえば、質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない。情報が少ないのだから、口の中等々で処理するのは簡単である。まったく時間がかからない。だからすばやく(ファスト)食べられる。」と。それに対して味わうに値する食事には大量の情報が含まれているといいます。「たとえば、ハンバーグなら、合い挽き肉に独特の味わいがある。牛肉の強いクセと豚のさわやかさだ。そこにタマネギの甘みが絡まる。タマネギは炒めてあるから、そこには甘みだけでなく香ばしさもある。これだけでも処理するのが大変である。」「つまり、味わうに値する食事は結果としてゆっくり(スロー)食べられることになる。」と。
この例を通して國分先生は何を伝えたいのでしょうか?実は「食を楽しむためには明らかに訓練が必要である」ということなのです。「複雑な味わいを口の中で選り分け、それをさまざまな感覚や部位で受け取ることは、訓練を経てはじめてできるようになることだ」とおっしゃいます。そして「食」を例に挙げることによって、一般的に「楽しむ」ためには「訓練が必要だ」ということ、「楽しむ」ことはけっして容易ではない、ということを伝えたかったのでした。「教育は、…楽しむ能力を訓練することだ」というラッセル(イギリスの哲学者)の言葉も引いています。
インフォ・リッチな「スローフード」を「古典文学」に、インフォ・プアな「ファストフード」を「ライトノベル」に置きかえてみると、その言わんとすることは理解できるのではないでしょうか。「古典文学」を楽しむためには相当の訓練が必要であるのは皆さんも了解できるでしょう。「スローフード」のシンボルマークが「カタツムリ」であることも示唆的です。もちろん「ゆっくり」という意味なのですが「思慮深い」という意味もこめられているのですよ。
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]]>「思い立ったが吉日」
女子生徒が鞄につけていた「お守り」に目がとまりました。なんとも色鮮やかで、お花の模様が描かれている「かわいい」お守りだったからです。「京都のおばあちゃんが贈ってくれたお守りなんですよ」と、説明をしてくれました。その時は知りませんでしたが、後から私も調べてみましたら、京都の東山区にある勝林寺というお寺の「お守り」だったようです。勝林寺は「SNS映えする花手水(はなちょうず)」で有名なお寺なのです。「花手水」というのは、神社やお寺の参拝前に手や身を清める「手水鉢(ちょうずばち)」の中に花を浮かべたもののことです。手水鉢の中に色とりどりの花が浮かんでいる風景がとてもかわいらしく、「フォトジェニックな写真が撮れる!」と若い世代を中心に話題になっているのです。勝林寺の花手水は「とにかくゴージャスなのが特徴」だといわれていますよ。私もインターネットで検索して確認してみましたが、手水鉢に花を浮かべるというよりも「花を盛る」と表現する方がしっくりくるほど、華やかにお花がしきつめられているのです。
でもその時に私が注目したのは、お守りの「お花の柄」ではなく、そこにご本尊として記されていた「吉祥天女」という刺繍でした。「めずらしいね!吉祥天のお守りは初めて見たよ!」と声に出してしまったほどです。吉祥天というのは、インドの神話に由来する豊穣や福徳をつかさどる女神のことです。インド神話ではラクシュミーという名前の女神様でしたが、仏教の世界に取り入れられて吉祥天という名前になったのでした。日本に伝わった歴史は古く、奈良時代に花開いた天平文化を代表する絵画として『薬師寺吉祥天像』が挙げられますが、そこに描かれているのがまさに「吉祥天」なのです。「三日月眉・切れ長の目・赤い小さな唇・ふくよかな頬」という「天平美人」の表現が特徴です。国宝に指定されていますからね。国際色豊かな「シルクロードの終着点」と称される「天平文化」は確認しておいてくださいね。聖武天皇の時代ですよ。
「このお守りは『学業成就』のお守りとして鞄につけているの?」と聞いてみたところ、「特に考えてはいません。おばあちゃんがくれたかわいいお守りだったから。」という答えでした。「吉祥天」といえば「美と豊穣と幸運」の守り神ですからね。おばあ様も「孫の幸せ」を願って贈ってくださったのでしょう。「でも知ってる?吉祥天は、願えば数学の問題が解けるというエピソードを持つ女神なんだよ!」「本当ですか!知りませんでした!」
インドの有名な数学者にラマヌジャンという人がいます。1887年に生まれ、1920年に亡くなった人ですので、すでに没後100年が経過しています。彼は「天才的なひらめき」をもった数学者と言われてきました。毎日のように新しい数学的発見をノートに記し、周囲を驚かせたのです。現在では20世紀を代表する大数学者と讃えられていますが、当時、彼の業績はなかなか評価されず、失意の中で32歳の短い生涯を終えたのでした。なぜ評価がされなかったのか。それはそこに「証明」がなかったからです。数式を導き出す論理的プロセスをとばして、一気に結論を提示したからです。この方法が、数学界では認められませんでした。ではラマヌジャンはどうやって数式を導き出していたのか?彼は言います。「ナマギーリ女神が舌に数式を書いてくれる」と。ナマギーリ女神とは、ラマヌジャンの地元で信仰される女神で、ヒンドゥー教のラクシュミーという女神のローカル版だといえます。そのラクシュミーが仏教に取り込まれ、吉祥天として日本にも伝わってきていることは先に述べたとおりですよね。
「じゃあこの『吉祥天』のお守りを持っていれば、数学の問題が解けるようになるっていうことですか!私、数学が苦手でなんです!」「だといいけどね(笑)。」ラマヌジャンは女神への信仰の証(あかし)として「数学の問題を解く」ということに、のめりこんでいったのですよ。お祈りをすることを朝昼晩の習慣とするように、数学の問題を解くことを習慣化することで、たどり着いた境地なのだといえます。ですから、同じように「習慣化」すれば、少なくとも数学への苦手意識はなくなるのではないでしょうか。
「せっかく『吉祥天』のお守りをつけているのだから、これも何かの縁ですよ。お守りを思い出したら、数学の問題を一問解く!を習慣にしてみましょう。『思い立ったが吉日』です。すぐに始めましょう!」と、生徒にはアドバイスをしました。
「思い立ったが吉日」というのは「何かを始めようと思ったときには、直ぐに実行に移したほうがよい」という意味のことわざですね。ある生徒が面白いことを教えてくれました。「その日以降は全て凶日」というものです。少年マンガの主人公が口にしたセリフだそうで、「始めなければヤバイ!」という気持ちが倍増するのだそうです。これは心理学的には「カウントダウン効果」というものですね。「期限を知らせると、つい行動してしまう」というもの。いい発想だと思います。
あらためて「習慣化」の重要性を認識してくださいね。「卓越性(優秀さ)は、一つの行為ではなく、習慣によって決まる。繰り返し行っている事が、われわれ人間の本質である」というのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉ですよ。
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]]>「眼光紙背に徹す」
「がんこうしはいにてっす」と読みます。中国の古典に由来していそうですが、これは日本の江戸時代の儒学者の言葉です。「書物を読んで、字句を解釈するだけでなく、その深意までもつかみとること」という意味になり、そこから「注意力や理解力が鋭いこと」のたとえとして使ったりもします。人気ドラマの主人公が「あなたは鶏群の一鶴、眼光紙背に徹す」というセリフを口にしたそうで、生徒から質問がありました。
「『紙の裏まで見通す』という意味ですよね。例えば、本の表紙のタイトルだけ見て、その内容まで理解してしまうとか。洞察力の鋭い人のことですよね。」
この生徒は、少ない情報から、それを補って余りある自身の予備知識を使って考察し、正しい内容を推理する、という「名探偵」のようなイメージで受け取っているようです。
「確かに、捜査官というドラマの登場人物の仕事ならば、『残された手がかり』から、状況を把握して推理することが大事になると思うけどね。でもそれを読書にあてはめて、『本を読まずに推理している』と考えるならば、それは大きな間違いだと思うよ!」
生徒にあえて「間違ってるよ」と伝えたのは、「文章を読まずに理解すること」に価値があると勘違いしてもらっては困るからです。あくまでも「眼光紙背に徹す」というのは、書物に文字として書かれた情報は全て把握した上で、さらに「その先」へと透徹する思考力のことなのです。「書いてあることは理解した。でもこれが全てではない」と考えること。なぜならば「書を著す」ということは、「書くこと」と「書かないこと」との選別に他ならないからです。一つの文章の裏側には、文章としては残されずに、消されてしまった多くの言葉が存在するということ。「紙背」というのは、そうした「書かれなかった文章」という意味です。文章を書いた人物が「あえて書かなかったこと」に意識を向けること。「なぜこちらを取り上げて記述し、あちらを取り上げなかったのか」という考察をすることで、場合によっては「筆者に都合のよいことだけで、論理を構築しているのではないか」と疑い、論理の飛躍はないのか?矛盾はないのか?と徹底して考え抜くこともあります。それが「筆者の意図を探る」ということの意味、「紙の裏まで見通す」ということなのですよ。
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国語の記述問題を苦手としている生徒から相談がありました。「どうすれば答案が書けるようになるでしょうか?」と、ずいぶんとストレートな質問です。よほど切羽詰まっているようでしたので、実際に答案を書いて見せてくれないかとお願いしました。そうすれば、どこに問題があるのか現物の作成答案を前にして、具体的なアドバイスを与えられるだろうと考えたからです。そして、目の前で入試問題を解き始めた生徒の様子を観察していて、驚きました。いや、心配になったと言えるかもしれません。なぜなら、問題と解答用紙を前にして、ピクリとも動かないからです。鉛筆すら手に持っていません。腕組みこそしていませんでしたが、机の上をにらみつけるように考え込んでいる姿は「長考する将棋棋士」さながらでした。まるで次の一手は何か?を考え抜いているかのようです。たまらず「鉛筆を持って、何か書いてみないことには始まらないよ!」と声をかけてしまいました。
将棋棋士が、最善の手はなんだろうと時間をかけて頭の中でシミュレート(駒を動かして考えてみること)している様子を表すのに、ぴったりの言葉があります。それが今回紹介する四字熟語「千思万考」なのです。藤井聡太八冠が、竜王戦を制した際に揮毫(きごう:毛筆で言葉を書くこと)した色紙に記されていましたよ。「竜王戦の2日制の長い持ち時間の中で、深く考えることもできた。一方で深く考える中で、すべてをしっかりと掘り下げて、比較することがなかなかできなかったところもあった」と振り返っていました。32手先を読んだ、と言われる藤井棋士です。実に10億通り以上の局面をシミュレートしなくてはなりません。「千思万考」は「何度も繰り返し考えること。あれこれ深く考えて思いをめぐらすこと」という意味になりますが、本当に「千」「万」という単位で考えているのが、棋士ですよね。ちなみに四字熟語に登場する「千」「万」という数字の意味は「数が多いこと」を表すたとえですからね。具体的な数値を表しているのではありません。ですから他にも「千○万□」という数字を使った四字熟語が多数存在しますよ。思いつきますでしょうか?いくつか挙げてみましょう。
「せんしばんこう」と同じ読み方をする四字熟語があります。「千紫万紅」と書きますよ。色とりどりの花が咲き乱れている様子を表しているのです。他にも「千変万化」(変化の多いこと)、「千差万別」(さまざまの違いがあること)、「千客万来」(多くの客が次々とつめかけること)などなど、「たくさん」という意味をもつ「千」と「万」ですからね。
さて、問題を前にして「千思万考」しているかのように見える生徒です。頭の中で、あれこれ記述答案を「シミュレート」してみているのでしょうか。タイミングがくれば「完成答案」が脳裏に浮かんできて、それを書き写してくれるのでしょうか。まるで、どこかからか正解が「おりてくる」ように。断言しておきましょう。頭の中で答案が完成することはない!と。
将棋の世界で「次の一手」を考え抜くのは、「ためしにやってみる」ということが勝負においてはできないからです。だから頭の中で「ためす」のです。「千」も「万」も、ためしてみるのです。それでも間違うかもしれない、というおそれと戦いながら、決断して手を打っていくのです。打ってしまえばもう後戻りはできませんから。それに対して「答案作成」は、一発勝負でもなんでもありません。何度もためしに書いてみることができるのです。
記述は嫌いなんです!と宣言する生徒に、「どうして記述が苦手なの?」と聞くと、同じような答えが返ってきます。それは「答えが思い浮かびません」というものです。ですから棋士のように固まっていた生徒は、分かりやすい態度を示してくれただけで、苦手とする生徒はみな同じように、「頭の中」で答えを見つけ出そうとして苦心しているのだと思います。
繰り返します。「頭の中で答案は完成しない!」と。では、どうするか。「ためしに書いてみる」ことなのです。答えを書こうとするのではありませんよ。「気になった言葉」でかまいません。単語でもいいのです。文章中から書き抜いてください。そこから始まるのです。いくつか言葉を書き写し、結びつけようとして言葉を書き加え、意味を持った言葉の連なりになって初めて、「答えのようなもの」が見えてくるのです。決して最初から「答え」が分かっているわけではないのです。目の前で、言葉をためしにつなげてみているうちに、「こんな意味になるのか!」と「発見」するものなのです。
書いてみる前には、どんな答えになるのか分からない、というのが当たり前なのだと心得てください。だから「鉛筆を持って、先ずはひと言、書き出してみる」ということが、記述問題の攻略にとって、何よりも必要になるのです。「答えは思い浮かばない」ということ。「きっかけは文章中に必ずある」ということ。思い悩む前に「できるはずだ!」と一歩を踏み出してみてください。全てはそこから始まりますよ。
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「凡事徹底」
「時間や手間をかけずに、結果を残したい」というコスパ最強の考え方に対して、そこから最も遠い地点にあると言える対極的な考え方は「時間や手間をかけなければ、結果は残せない」というものになるでしょう。しかし、「膨大な時間と手間をかければ成功する可能性が上がります」と言ってしまえば、「それは当たり前でしょう!」と誰もが思うだけで、むしろ「もっといい方法はないのか?」とコスパを意識する方が健全な反応だとも思います。重要なのは「どのように取り組むのか」という姿勢の問題になるのです。
「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」だと語ったイチロー選手を思い出します。メジャーリーグの年間最多安打記録を打ちたてた際の記者会見での言葉です。イチロー選手は、まだ日本のプロ野球の新人だった時に、「今までに、これだけはやったなと言える練習はあるか」と聞かれたことがあるそうです。その際に次のように答えました。「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、寝る前に必ず素振りをしました。その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。これが誰よりもやった練習です」と。「小さなことの積み重ね」が結果的に「膨大な時間と手間」をかけたことになっていればいいということです。
「凡事徹底」という四字熟語があります。「凡」という文字には「ありふれた」「ふつうの」という意味があり、「凡事」で「ありきたりなこと」「当たり前のこと」を表しています。「徹底」は、「態度・行動が中途半端でなく、一つの考え方で貫かれていること」です。「凡事」と「徹底」の二つの熟語を組み合わせた「凡事徹底」は、当たり前のことを徹底的に突き詰めて行うことを言い表す四字熟語になります。
「素振りを10分」は基礎的なことですが、毎日欠かさず続けることが重要です。まさに「凡事徹底」です。「とんでもないところへ行くただ一つの道」という言葉の重みを感じて下さい。皆さんもぜひ「1日10分」でいいですから「続けられること」を始めてみてください!イチロー選手が「寝る前に」実行していたように、どのタイミングで行うかは決めておくべきです。それは「寝る前には歯を磨く」と同じように「習慣」にするためです。学校から帰ったらすぐにノートに数学の問題を解く、寝る前に必ず英語の音読をする、こうした積み重ねが学力を引き上げる道筋となるはずです。
また勉強だけでなく続けてほしい習慣があります。「経営の神様」との異名を持つ、パナソニックの創業者である松下幸之助さんは、人材育成において「凡事徹底」を教育方針の一つにしていました。その内容は「挨拶をすること」「整理整頓をすること」など、身の回りのことを意識して実行するということです。「必ず行う」という姿勢が重視されました。
皆さんも「朝友達に会ったら大きな声で挨拶する」ことや「夜ベッドに入る前に、机の周りを整理整頓する」といった、習慣にできることから始めてみてください。気持ちがすっきりとして、前向きに物事に取り組めるようになりますよ。目に見えるほどの変化は起きなくても、毎日続けることで確実に成長していけるのです。
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]]>「ハンチング」
「先生、物語文の中に『ハンチング帽』って出てきたのですが、それは何ですか?」
時間さえあれば「読書」を心がけている生徒からの質問です。ただし「ライトノベル」が中心です。「物語文とか言っているが、推理小説か何かを読んでいたのだろう!」「先生、よくわかりましたね。登場人物が被っていた帽子です。」
「ハンチング帽」というのは、19世紀半ばからイギリスで用いられるようになった狩猟用の帽子のことです。日本語では「鳥打ち帽」と訳されることもあります。生徒が質問したかったのは「なぜハンチングという表記がされるのか?」ということだったようです。狩猟用ということであれば「ハンティング」が正しいのではないか?という疑問です。これは日本語の「なじみ」(慣れ親しみ、不自然な印象がないこと)の問題で、「プラスティック」が正しくて「プラスチック」は誤りだ、ということでもないのと同様に、「ハンチング帽」とこれまで表記がされてきたのですね。
また、どうして「ハンチング帽」が「探偵っぽい雰囲気」を示す小道具になったのかといえば、もちろんコナン・ドイルの小説の登場人物シャーロック・ホームズが被っていた帽子が「鹿撃ち帽」だからですよね。この小説の挿絵の中で描かれた「ハンチング帽を被ったシャーロック・ホームズ」というスタイルが、探偵のイメージとして世間に流布されることになったのです。
さて「ハンチング」は「狩り」のことですが、「鳥打ち」や「鹿撃ち」というように、鳥や小動物を「捕獲する」という意味です。そこから「狩り」の用法を広げて、獣だけではなく果物などを「採集する」という意味でも使われたりします。「いちご狩り」や「ぶどう狩り」や「きのこ狩り」という言い方ですね。また「潮干狩り」も、この採集するという意味で理解できるでしょう。そしてこうした「自然の中で何かを探し求める」という意味の延長線上に、自然を「観賞する」という内容も含まれて、「紅葉狩り」や「蛍狩り」という言葉が成立するのでしょう。「蛍狩り」は、昆虫採集ではありませんからね。蛍が闇のなかで微かな光を放ちながら飛び舞う姿を愛でる行為なのです。
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「自分で自分に問いかけ、自分で答えること」という意味の四字熟語になります。試しに「自問自答」と入力して、ネットで画像を検索してみました。すると『考える人』の画像が次々と画面表示されたのです。なるほどね、と思わず納得してしまいました。
『考える人』というのは、「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの代表作といえるブロンズ像です。座ったまま前方に体を傾けて、折り曲げた右手の拳に歯をあてているという独特のポーズは、どこかで皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。実物を確認したければ、上野にある国立西洋美術館に足を運んでみてください。美術館の前庭に設置してあるので、「入館料」を払わずとも見学することができますよ。「それってレプリカ(複製品)で、本物じゃないですよね?」と思うかもしれませんね。ブロンズ像は原型をもとに鋳造するという作成過程を経ますので、「正式な許可のもとで鋳造された作品」をオリジナル作品と呼びます。『考える人』には、フランス政府が認めたオリジナル作品が21体存在します。そして上野の『考える人』は、オリジナル作品に間違いありません。ぜひ本物を、じっくりと鑑賞してみてください。また国立西洋美術館本館の建物は20世紀の建築界の巨匠であるル・コルビュジェが設計したもので、2016年には世界文化遺産にも登録されていますからね。
「自問自答」の代表的なポーズとして『考える人』が登場しましたが、「実は、『考える人』は何も考えていない!」という説があります。雑学クイズの問題で取り上げられたりしたこともありますよ。『考える人』は、もともとロダンの『地獄の門』と呼ばれる巨大な彫刻作品の一部分なのです。『地獄の門』という作品の中で「地獄に落ちていく罪人を上から見つめている人」を表現しているのが『考える人』の本来の姿なのです。ですから、何か考え込んであのポーズを取っているというよりも、上から地獄へ落ちていく罪人を見つめているポーズであるということで、「何も考えてはいない」という話になるのですね。ちなみに『地獄の門』も国立西洋美術館にオリジナル作品が展示してあり、自由に見学することができます。作品の上のほうに、しっかりと「考える人」が存在することも確認してみてくださいね。
さて「自問自答」の意義についてです。「どうすれば国語の成績を上げることができますか?」という生徒からの切実な問いかけは、国語の先生である私にとって、最も頻度の高い質問だといえます。具体的な対処方法は、生徒それぞれに応じてもちろん違うのですが、根本となる「心構え」については同じ回答をしています。そもそも「満点を狙っていたか?」と。多くの生徒が、これまでの経験や周りを見ての判断なのでしょうが、「国語は百点満点の取れない科目」だと決めつけていることが多すぎます。それではダメなのです!「国語は満点でなくてはならない」と考えを改めてください。答案という「自分の考え」を提出しておきながら、テストが返却された際に「今回は80点か。平均点は越えているし、まぁいいかな」「えっ、70点しか取れてなかった。次は頑張ろう」といった「ヌルい」反応になってしまうからダメだというのです。「何点とれたか」ではありません。「間違い」があったことに対して「おかしい!なぜだ!」という反応でなければならないのです。全部正解で満点のはずだ!という答案への自負、こだわりがないようでは、国語は戦えないと心得てください。正解かどうかがはっきりとしている数学とは違って、「なぜ減点されたのか?」「どうしてバツなのか?」という、自ら問いかける姿勢が国語には必須となります。自分の答案にこだわりがないと、模範解答をながめて「そんなものか」と受け入れて、それでおしまいになってしまいます。なぜこれが正解なのか?自分の答案と何が違うというのか!「拳を歯にあてて」「地獄を見つめるように」食らいついてください。簡単に納得してはいけませんよ。そのための最良の方策が「自問自答」の習慣づけなのです。腑に落ちるまで徹底的に考え抜くというスタイルを、ぜひ身につけてくださいね。
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]]>「羽振りがよい」
「先生、大発見です!」と、嬉しそうに報告してくれた教え子くんがいます。「辞書を引いていて見つけたんですけれども、こんな偶然ってあるでしょうか!」と、興奮冷めやらぬ様子です。「一体、何を発見したっていうの?」とたずねると「羽振りがよい」という言い回しを、辞書で調べたのだと言うのです。
「羽振りがよい」というのは、「財力があり、気前がよいこと」を意味する慣用表現です。「世間における地位・勢力・人望に恵まれ、威勢がいい」というところから、具体的な場面として「周りの人達に対して、気前よくお金を使う」という行動になって現れるということなのですね。「羽振り」という言葉は、もともとは「鳥が威勢よく羽ばたくこと」という意味でしたが、その威勢のよい様子から比喩的に「地位や権力や金力があり、勢いのあること」を表す言葉へと転じたと考えられています。
「それで、大発見というのは何だったの?」と、再びたずねると「辞書で隣に並んで載っている言葉は何だと思いますか!」「『羽振りがよい』の隣?何だろう、思いつかないね。」「『バブリー』なんですよ!『バブリー』!」
「バブリー(bubbly)」というのは、英語本来の用法では「泡立っている」といった意味合いの表現ですが、「バブル景気」という日本語を前提として「バブル期的な思考、金遣い」などを意味する場合が多いのです。まさに「景気よくお金をぱっぱと使う様や、そういったお金の使い方をする人」を意味しています。確かに「羽振りがよい」と並んでいるのは偶然にしても出来過ぎといった感じですね。いや、「バブリー」が辞書に載っているということにさえ驚きなのですが、もはや「歴史的な用語」という扱いなのでしょうね。
「バブリーな時代の象徴として、羽毛のようなフサフサした飾りのついた、色が派手だったり光がキラキラ反射する素材だったりする、大ぶりな扇子があるじゃないですか。」「よく知ってるね『ジュリ扇』っていうんだよ。」「まさに『羽振りがよい』という言葉の意味、そのものじゃないですか!」
教え子くんの言う通り「大発見」で間違いないでしょう。私もなんだか感動しました。こうした自分で「発見」した内容というのは、感動とともに記憶に深く刻み込まれるものです。とてもよい学習の機会でもあったと思いますよ!
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]]>「マインドセット」
野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、マイアミの「ローンデポ・パーク」で決勝が行われ、日本が前回王者であるアメリカを3-2で下し、2009年第2回大会以来14年ぶり3度目の優勝を果たしました!連日の熱戦を、文字通り「テレビの前にかじりついて」応援していましたね。中でも大会MVPに輝いた大谷翔平選手は、まさに八面六臂(はちめんろっぴ:一人で何人分もの活躍をすること)と呼ぶにふさわしい活躍でした。
決勝戦の前、大谷選手はロッカールームでの円陣で「声出し」(チームのメンバーに檄をとばすこと)を今大会で初めて担当し、その様子を撮影した動画が「侍ジャパン公式ツイッター」で公開されて大きな話題を呼びました。その内容は「僕から一個だけ。憧れるのをやめましょう」という言葉からから始まるものでした。
「ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日超えるために、トップになるために来たので。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう!」
これは心理学的には「マインドセット」の変更と呼ばれています。「マインドセット」というのは、「今までの経験や持っている知識、先入観、信念、他者との関係性などさまざまな要素から成り立ち、その人の思考や行動の根幹を形作っているもの」です。野球選手としての経験を積んできた人物ならば、誰しもがそう考えてしまう「野球選手のマインドセット」があるのです。スーパースターに「憧れる」のが当たり前なのです。でも、それでは超えられない。チェンジ!関係性を変更しよう!「憧れ」から「競い合う相手」へと。
このことは「第一志望」にもいえることではないでしょうか。「第一志望」に憧れているだけではだめなのです。現実に格闘しなくてはならない相手そのものなのですから。大谷選手にならって「憧れを捨てて、合格することだけ考えていきましょう!」と皆さんに檄をとばしたいと思います。
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]]>「糧にする」
「失敗を糧にすることでしか、成長はできない」というのが、長年生徒を教えてきて得た、私なりの教訓でもあります。この「糧にする」という言い回しが、本当にしっくりとくるのです。「糧」という言葉は、「食糧」という熟語があるように「食べ物」という意味が基本になります。そこから生じて「精神・生活の活力の源泉」という、人間を豊かにして力づけるものという意味を持つようになるのですが、まさに「糧にする」というのは「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」というゲーテの言葉と相まって、人生の血肉となる経験を指しているように思えるのです。
「人は失敗からしか学べない」というと極端ですけれども、「失敗を経験すること」「失敗を乗り越えること」には重要な意味があると思います。自分でやり方を考え、工夫し、うまくいかないときには反省して修正する。これこそが中学生に求められる勉強法なのでしょうから。中間テストや期末テストは、そのためのチャンスだととらえて下さい。こういうと「テストがうまくいかないのは困ります!」と、君たちは思うかもしれません。でも失敗してもいいのです。むしろ中学生の時期に失敗をたくさん経験することが大事なのです。「失敗させない教育」というのは、生徒に困難を乗り越える訓練をさせないのと同じであると、最近では文部科学省でもそう考えているのですよ。
「青少年の成長過程にあっては、効率を追求して間違いや失敗のない必要最小限の経験を大人が選んで青少年に行わせることが必ずしも最善とは言えない。青少年自身が多様な体験を通じて試行錯誤する中で成長実感を得るとともにつまずきを乗り越える自信と力量を養い、経験知を獲得し、主体性をはぐくむことが必要である。」
これが現在の中教審の見解です。ですから、皆さんも堂々と、中間テストや期末テストで失敗してください!文科省のいう「経験知」とは、文字通り「経験」を通してしか身につけられない技能や体感などのことです。失敗や苦労を重ねつつそれを乗り越え、挑戦を繰り返すなかでしか体得できないことがあるのです。そして、このような試行錯誤を通じて「自分にもできたのだ、がんばればできるのだ」と、成長を実感するのです。この「自分はやればできる」という感覚が大切なのですよ。
JUGEMテーマ:教育
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「クリエイター」
「将来はクリエイターになりたいです!」という生徒に対して「何を創造したいの?」という質問で返してしまいました。「パティシエール(女性パティシエ:菓子作り職人)」になりたいです!」という生徒に対しては「頑張ってね!」と返したのですが。別に意地悪で質問したのではありませんよ。生徒が「クリエイター」にどんなイメージを持っているのかがわからなかったものですから。
「クリエイター」は「クリエイトする人」という意味であり、「クリエイト」というのは「創造する」という意味の言葉だからです。「創造する」というのは「新しいものを初めて作り出すこと」という意味になりますので、生徒に「一体何を新しく生み出したいの?」と聞いてみたくなったのです。生徒の答えは「ゲームクリエイター」でした。コンピューターゲームの開発者になりたいということですね。他にもCMなどの広告の制作を手がける人や、作品を生み出す人すなわち作家や作曲家も「制作者」「創作家」という意味で「クリエイター」といえるでしょう。新しい創作菓子を生み出すのならパティシエールもクリエイターの一種であるでしょう。
「クリエイティブ(創造的)になるためには、どんな勉強をすればよいでしょうか?」という質問がきました。何かを覚えればすむという話ではありませんよね。クリエイターに求められるのは「明確な意図をもって、新しいものを作り出そうとすること」です。そうした「姿勢」を学ぶことがとても重要になります。ゲーム開発者にも、パティシエールにも求められる姿勢ですよね。では受験勉強を通じて、どんな準備ができるといいのでしょうか?
「クリエイターの意図を意識すること」に敏感になってください。ゲームをプレイするにしても、漫然と楽しむだけではなく、「どうしてこんな仕掛けになっているのだろう?」と、背後に存在するゲーム開発者の意図を探るようにするのです。開発者の視点を持つことが大切なのだといえます。国語の読解問題を解く際も同様です。テストの問題を作成している人物を意識しましょう。受験生よりも先に出題文を解釈して、それに基づいて設問を作り上げている人物です。この存在を忘れてはならないのです。国語の読解で最も大切なのは、この「作問者」の意図を探ることなのです。「どうしてこんな問いかけになっているのだろう?」という視点で、設問に向き合ってみてください。なるほどそういうことか!と作問者の意図に気づくことが、答案作成の要であるということも理解できるはずですよ。
JUGEMテーマ:教育
]]>「プログラミング」
「先生!eスポーツで入試が行われるようになるのでしょうか?」教え子君が突拍子もない質問をぶつけてきました。eスポーツというのは「エレクトロニック・スポーツ(electronic sports)」の略称で、コンピューターゲームやビデオゲームを使ったスポーツ競技のことを指します。スポーツというとアスリート(身体運動に習熟している人)を思い浮かべるかもしれませんが、要は複数のプレイヤーで対戦するゲームをスポーツだと解釈してeスポーツと呼んでいるのです。アメリカではすでに、国がeスポーツをスポーツとして認めており、プロゲーマーがスポーツ選手であることも認められています。
「世界的なゲームメーカーがある日本なのに、まだまだeスポーツの認知度は低いよね。世界からはeスポーツの後進国と呼ばれているくらいだから。いきなり入試に登場することはないと思うよ」と、答えたものの面白い視点だと感じたのでした。現に、早稲田大学の自己推薦入試では、卓球で活躍した生徒や囲碁で活躍した生徒が合格を果たしています。ですからeスポーツで活躍した生徒が合格するのもそれほど遠い未来の話ではないように思えるのです。「でも、学校の授業でやることが決まったと聞いたので、授業でやるなら入試にも出るかなと思って」と教え子君は続けます。驚いた私は「教育現場にeスポーツ導入だって!一体どこの自治体の話なの、それは?中高生の放課後の居場所づくりという事業では、多人数で遊べるビデオゲームを導入して成果を上げたという話を聞いたことがあるけれど、あくまで学校外の話だよ。授業でやるってどこで聞いたの?」と逆に質問してしまいました。「中学校の授業で必修化されるって…」「ああ、それはプログラミング教育のことだよ!」
教え子君は「プログラミング教育必修化」という情報に何らかのメディアで接する機会があったのでしょう。もしかしたらその際にニュース映像で「コンピューターの画面に向かう生徒」というシーンでも目にしたのかもしれません。そこで自分なりの解釈として「学校でコンピューターをさわってゲームをする授業」というイメージをふくらませたのでしょう。でも、もちろんプログラミング教育はコンピューターゲームをする授業ではありませんからね。
プログラミングとは「プログラムを設計すること」であり、プログラムとは「コンピューターに対する指示」のことです。プログラミング教育とは、コンピューターが情報を処理するためのプログラムを設計することで、論理的な思考力・創造力を身につけることを目的とした教育なのです。文部科学省は改訂された学習指導要領で、2021年から中学校のプログラミング教育必修化を決定しています。「じゃあ先生、プログラマーをみんなで目指すのですか?」eスポーツとかプログラマーとか、言葉はよく知っている教え子君です。プログラミング教育のねらいは「プログラマー(プログラミングを行なう人)」の育成ではありません。「プログラミング的思考」を養うことなのです。文部科学省では「プログラミング的思考」を次のように定義しています。「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」であると。プログラミングによって学べる力は「論理的思考力」「自発的な学習能力」「問題解決力」であるといわれています。プログラムは、処理手順に沿って作業しなければエラーが発生してしまいます。エラーが発生した場合には、なぜエラーが発生したのか原因を探り(論理的思考力)、対処方法を自分で考えなくてはなりません(問題解決力)。その際、自ら調べることが必要となるため(自発的な学習能力)、プログラミングは教育内容として優れているというわけです。「ということは、プログラミングが入試に出るようになるのですね!」と教え子君。
学習指導要領の改訂では確かに「プログラミング教育の必修化」が打ち出されましたが、それは「授業で扱う題材として必ず取り上げるように」という意味で、「科目」として独立するわけではありません。文部科学省が提示している「モデル授業」でも、様々な学年での取り組みが示されていますが、何年生で取り上げても構わないという扱いですので、学校によっては扱う学年が違ってくるのかもしれません。科目ではありませんので、高校入試での「受験科目」になることも、現時点ではないと考えられますよ。新しい取り組みですので、授業の工夫について、各学校では「外部の専門家を招いて担任の先生への講習会」が盛んにおこなわれています。私の友人も、都内の学校に講演に出向いています。どんな内容を話したのか聞いたところ「ゴール(目的)から逆算して、何をすべきなのかを考えることのできる」思考法を身につけさせることが重要だ、ということだそうです。コンピューターをいじれる、というイメージが先行していますが、そうではないオーソドックスな「思考法」についての教育が大切になる、とのことです。eスポーツはゲームの操作や戦略を競うものですので、プログラミング教育とは直接的には関係してこないですが、「面白いゲームをつくるという目的のためには、どんな工夫が必要なのか」といったプログラミングの導入に、ゲームが取り入れられることは大いにありうると思いますよ。
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「一期一会」
今回紹介しようと思った四字熟語が頭に浮かんだのは、ある教え子くんのお母様からの相談がきっかけでした。それは「どうしてウチの子は、口をすっぱくして言ってきかせても、勉強法を変えようとしないのでしょうか?理解に苦しみます!」という、悲痛な叫びから始まるものでした。「問題を解いたら解きっぱなしで、テストの前にもう一度見直すということを、なぜしないのでしょうか?」お母様のおっしゃる通りです。間違い直しを効率的にこなすことは、とても重要になります。解きっぱなしだけではなく、直しっぱなしという問題でもありますよね。テスト前ならなおさら意識しなくてはなりません。「そもそも間違えた箇所をノートに書き写しておけば、テスト直前にノートを見直すだけで一度に復習ができてしまうというのに、どうしてノートをつくってくれないのでしょうか?」素晴らしいアドバイスです。お母様のお話は経験に基づいた説得力があると思います。「では、なぜ、ウチの子は、言うことをきいてくれないのでしょうか?」それはですねお母様、「今、わざわざ直さなくても、また次の機会は、やってくる」と、お子さんが無意識に思っているからなのです。「やったほうがいい」とは、お子さんもお母様の話を聞いて、頭では理解しているでしょう。本人も「いつかやるつもり」でいると思います。でもそれは「今でなくてもいいだろう」なのです。
この「今じゃなくてもいい」という感覚は、実は人間にとって根深いものがあると思います。昨日と同じように今日が続くこと。今日と同じように明日が続いていくこと。「特別のことがなく繰り返される毎日」を意味するのが「日常」という言葉になりますが、人間にとって、この「日常」を送ることができるということが「幸せ」の根本にあると考えられるからです。対極にあるイレギュラーな事態を「非日常」と呼ぶことになるわけですし、わが身に降りかかる災難はその典型です。ですから、「同じように明日はまたやってくる」という連続性を断ち切って、「今しかない」という決断をするには、相当の覚悟が求められるのです。すなわち「明日はないかもしれない」という悲壮な思いがなければ「今日」の行動には結びつかないということなのです。
そこで思い起こされたのが今回の四字熟語なのです。「いちごいちえ」と読みます。「一期」は「人が生まれてから死ぬまで」を意味する言葉、「一会」は「ひとつの集まり、会合」を意味する言葉です。これを組み合わせて「一生に一度だけの機会」や「生涯に一度限りであること」を意味する四字熟語となりました。「生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する」という心構えを表す言葉でもあります。特に茶道の心得を示した言葉として有名ですよね。「どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきこと」。千利休の言葉とされています。「お茶を飲む」という、日常で繰り返される何気ない行為も、「今この目の前のお茶を飲む」というのは、一生に一度しかできないことなのです。明日飲むお茶は、今日のこのお茶とは違うのですから。お茶を出すほうも、お茶を飲むほうも、一生に一度のタイミングだと心得て、全身全霊を傾けるべきだという教えです。これはやはり、明日のわが身の保障もない戦国時代の世だからこそ、受け入れられていった考え方なのだとつくづく思います。
ですから「明日はない」と思って勉強しなさい!という追い込み方は、「武士」レベルの心理的ストレスをかけることになりますので、ハードルは高いと思いますよ。では、どうすればいいのでしょうか?「今あることの幸せを感じながらお茶を飲む」に通じることですが「今勉強できることに幸せを感じながら『直し』をする」といったところでしょうか。こんな風に思うようになったのは、私も年をとったせいかと思いますが、参考になる考え方を示した書籍があるのです。大学の大先輩でありエッセイストの玉村豊男さんによる『毎日が最後の晩餐』という珠玉のレシピ&エッセイ集です。すごいタイトルですよね。そこには、こう書かれています。「毎日の夕食を食べるとき、あ、これが『最後の晩餐』かもしれない…と思えば、余計なことは忘れて、目の前の食卓だけを楽しむ気分になるだろう」この境地にお母様も立って、お子さんとの毎日の食事を楽しんでみてください!そうすれば、お子さんも、楽しんで「直し」ができるようになるのではないでしょうか。
「先生…なんだか、だまされているような気がするのですが?気のせいでしょうか…」いえいえ、自分にとって、慣れっこになってしまっていることほど、あえて「今しかない!」という気持ちで、「楽しんで」取り組みましょう!という提案です。ポジティブな発想が重要になります。そもそも人間の自然な感覚(「今じゃなくてもいい」)には逆らうわけですから。またこの次もあるから…という意識ではダメなのだ!という点を強調するだけでは、前に進まないと思うのです。そうはいっても、漢字や単語の「確認テスト」のための勉強を「いつもの通り」で流してしまってはいけませんよ!というアドバイスであることにはかわりませんからね。いつもやる当たり前の行為こそ「一期一会」の感覚を持って、「今しかできない」という意識で集中しましょう!ということになると思います。
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]]>「制御不能」
コロナ禍においては、修学旅行に代表されるような「学校行事」について、様々な制限が課せられることになりました。皆さんたちも、中止や延期や変更といった学校側の対応に、ある意味振り回されてきたこの3年だったと思います。とはいえ学校関係者が、「どのような代替行事を実施すればよいのか?」と、頭を悩ませ試行錯誤を続けてきたことは承知しておいて下さいね。そうした模索の中には、学校が行う「体験活動」について「そもそも、どうあるべきか?」といった議論まで含まれているのですよ。
中央教育審議会では「体験活動」のことを「体験を通じて何らかの学習が行われることを目的として、体験する者に対して意図的・計画的に提供される体験」と定義しています。「体験する者」というのはもちろん皆さんたち生徒のことであり、「意図的・計画的に提供」するのが学校の役割になるのです。ですからどうしても、学校側の「意図」に沿わなかったり、「計画」通りにいかなかったりすることについては、教育活動としてはふさわしくないと判断されてしまうことになるのです。「もっと自由な行動を認める体験活動にしてほしいと思います!」という要望があることは知っています。学校も「いじわる」で皆さんたちの声に耳をふさいでいるわけではないのですよ。できるかぎり生徒の自主性にまかせた活動を後押ししたいと学校側も考えています。ですが、計画を立てる側としては「不確定要素」はできるだけ排除したいと構えてしまうものなのですね。とりわけ「自然体験活動」については、生徒の行動のみならず、相手が「自然」なものですから「思い通りにいかない」要素が多分に含まれているため、学校側としても準備がとても大変になるのです。
文部科学省では「自然体験活動」のことを「自然の中で、自然を活用して行われる活動であり、具体的には、キャンプ、ハイキング、スキー、カヌーといった野外活動、動植物や星の観察といった、自然・環境学習活動、自然物を使った工作や自然の中での音楽会といった文化・芸術活動などを含んだ総合的な活動である」と定義しています。身近な「自然体験」として、キャンプ(野外で一時的な生活をすること)に参加したことのある皆さんも多いのではないでしょうか。「飯ごう炊さん」や「キャンプファイヤー」など、小学生の頃からお馴染みの体験であるともいえます。「身近な」「お馴染み」と書きました。ところがこれも準備をする学校側からすると、皆さんとは全く違ったシロモノに見えてくるのです。
「怪我や火傷の危険性を回避しなければならない」「食中毒の危険性も排除しなければならない」「熱中症等の健康管理には注意しなければならない」「急な天候の変化にも対応しなければならない」などなど、「意図的・計画的に提供」をする立場からは「想定外」ではすまされないことばかりなのです。ですからリスクマネジメントの観点から、キャンプ等の活動そのものを専門の業者に委託する学校も多くなってしまうのですね。「好きにさせてもらえない」と感じることもあるでしょうが、理由があってのことだと理解して下さい。
それでも「体験活動がどうあるべきか?」という議論においては、学校関係者もリスク回避のことばかりではなく、自然体験の意義について熱く意見を交わしていたのですよ。「自然体験」というからには「自然」=「100%のコントロールは不可能」という事実を知ることにこそ重要な意義があるのではないのか、という問いかけもなされました。計画通りに活動が進むだけでは確認作業で終わってしまいます。不確定要素がもたらす困難に直面して、「思っていたことと違う」「うまくいかない・できない」という「制御不能」な面を自然の中で経験することにこそ、教育的な価値があるという意見です。「制御不能」に陥らない計画性と、「制御不能」を意図的に経験することの両面を考慮すべきだということになります。
また、人間も「自然の一部」であるということの認識も重要だと考えられました。コントロールできない自然の力というものが、自分の中にも潜んでいるという理解です。自然の豊かさとは何か。それは複雑性であり多様性です。そしてそれは豊かな人間性についても言えることなのです。自分の中にある複雑性に目を向けること。コンプレックスという言葉は、様々な感情の「複合体」という意味なのです。
ですから、自分の感情がコントロールできないからといって、単純にマイナスの評価を下すべきではありません。人目をはばからず大泣きすることや、怒りにまかせて感情を爆発させることも、押さえつけるばかりではなく時には「自然な営み」として認めることも必要になるのです。ただし、「制御不能」を言い訳にして、はじめから無理だと居直ってしまっては「人間の営み」とは言えません。思い通りにはならないことがあると知りつつも、自分ができることに注力すること。これこそが理性の働きなのです。自然体験活動で身につけて欲しい「生きる力」だとも言えます。人間と自然が共生するというのは、一体化すればよいという簡単な話ではありません。文化(理性)を媒介として、人間の生活を自然の中で続けることこそ重要なのだと思います。
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]]>「表裏一体」
「先生!前に言っていたことと違いますよ!どちらが正しいのですか?」長年、生徒指導を続けている私ですが、まれにこうした指摘を受けることがあります。授業の内容ではありませんよ。前回教えたことと今回教えた内容が食い違っているなどということは、プロとしてあってはならないことですから。そうではなく、生徒への「学習アドバイス」について、「前に受けたアドバイスと話が違っている!」という指摘なのです。
もしこれが、中学生になったばかりの一年生へのアドバイスと、受験期をむかえた三年生へのアドバイスとでは、指導する先生の「顔つき」も含めて違っているという話ならば、理解もできると思います。いつもニコニコ優しい顔で接してくれていた先生が、ほんの少しの気の緩みも見逃さない厳しい指導をするようになった、という場合ですね。同じ先生なのにタイミングによって態度が変わるわけですから、「前と違う」という指摘には当てはまるでしょう。でもそれでは、「アドバイスの内容」が違うという話にはならないのかもしれませんね。少し想像してみました。私が以前に何らかのアドバイスをしたとして、そしてその「先生からもらったアドバイス」を大切に胸に刻んできた生徒がいたとして、そこで「以前とは相反するようなアドバイス」をあらためて私から投げかけられたとしたら…当惑するのは当たり前だと思います。さらに想像すると、「先生、話が違います!」と直接口に出して伝えてくれた生徒はごく少数で、心の中でそう思っていた生徒はもしかしたら多くいたのではないか?と、そんな思いに至ったのです。「これは皆さんに趣旨を説明しなければ」と考えた次第です。
具体的に解説するのがいいでしょう。私が同じ生徒に対して与えた、異なったアドバイスについてです。定期テストを前に問題演習を繰り返すことに躍起になっていた生徒に対して、「問題をやみくもに解くだけではだめだよ。理解を深めなければ。納得できるまで解説をしっかりと読むことを心がけて。問題を解いた数は気にしなくてもいいから」と助言しました。その後、解説を読むことに注意を払うようになった生徒に対して、あらためて与えたアドバイスが次になります。「分かったつもりになっているだけではダメだよ。演習を繰り返さなければ。実践の中での気づきこそ重要なのだから、演習量をちゃんと確保して」というものです。確かにこれを同じ日に言われたら「どっちが正しいのですか?」と悩みますよね。でもこの指摘は、同時に行われてもおかしくない「表裏一体」のものだと理解してほしいのです。
「表裏一体」は「ひょうりいったい」と読みます。「二つのものが、表と裏のように切り離せない関係にあること」を意味し「相反するもの同士が実は一つであること」を表現しています。英語にするとイメージがつかみやすいですよ。「two sides of the same coin」になります。「two sides」は「二つの面」つまり「両面」を意味し、「the same coin」は「同じコイン(硬貨)」という意味です。すなわち「同じコインの表と裏」という意味になるのですね。
ただ数多く問題を解くだけでは「理解すべきテーマ」をつかみ損ねてしまいます。きちんとした解説のもとに「基本的なルール」を身につける必要があるのです。一方で、複数の問題を解くことで、そこに共通点(=ルール)を見出し、「一般的な結論(=テーマ)」を導き出すことも可能です。自分でたどり着いた「テーマ」は、身につくこと請け合いですから。生徒にどちらのアドバイスをするのかというのは、生徒の学習状況次第ですし、どちらが正しいというものでもないのです。コインという「全体」からみれば、「表」であっても「裏」であっても、それらはどちらも同じ「部分」だということができます。場合によっては、どちらを「表」にするのか「裏」にするのか、選ぶことも必要になります。それでもコインという「全体」は、「表」だけでも「裏」だけでも成り立ちません。両方必要なのです。
われわれ教師は、生徒の学習状況全体を把握し、その上で、ピンポイントの指摘を行います。「今一番効果的なアドバイス」を心がけるからです。「入試の過去問なんて、やらなくていい!」と言う場面もあれば、「入試の過去問だけやればいい!」と言う場面もあるのです。「計画的に、決められたことを、順序良くやりなさい!」と言う場面もあれば、「優先順位を変えて、時間を度外視してでも、やりきりなさい!」と言う場面もあるのです。決してその場の思いつきで発言しているのではありません。ある水準では「よし」とされることでも、より高次の視点から見れば「だめ」だということがあります。逆もまたしかりで、ある水準では「だめ」だとされることでも、より高次の視点では「よし」ということもあるのです。
生徒の成長が著しい場合、アドバイスを与える間隔がつまってしまい、「前と違う!」という経験をすることもあるかもしれません。でもそれは、「より高次」の助言が与えられた!と理解してくださいね。皆さんの成長を見通した上で、われわれはアドバイスを授けているのですよ。
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