「スローフード」
「スロー(slow)」というのは「ゆっくり」という意味ですよね。そこに「フード(food)」という「食べ物」を意味する言葉がついています。「スローフード」というのは、食べ物をじっくり見直すことから、生活に豊かさをもたらそうという運動のことを指しています。1980年代にイタリアで始まった運動なのです。その後ヨーロッパの各国をはじめ、日本も含めた160カ国以上に広まりました。きっかけとなったのは、イタリアの中心地ローマに、世界的に有名なハンバーガーチェーン店が進出したことでした。注文すればすぐに食べられる「ファストフード」のお店です。「ファスト(fast)」というのは「迅速な」という意味ですよね。よく間違えられるのですが「第一の」という意味の「ファースト(first)」ではありませんからね。それでも、20年前の調査(NHK放送文化研究所)では、「ファーストフード」という表記を選ぶ人が72%に達していましたよ。現在では、他にも「ファストファッション(fast fashion)」といった新しい用語が誕生したこともあり、「ファストフード」という表記が定着しているように思います。イタリアでは「子どもたちからママのパスタを取り上げるな!」といったスローガンを掲げて、ファストフードチェーン店に対して反対運動が展開されたのでした。そこで「ファストフード」に対置されたのが「スローフード」という考え方だったのです。
伝統的な食材や、その土地ならではの素材を活かした食べ物をとることを、「スローフード」は推奨しています。たとえば日本なら、お米やみそ、しょうゆなど伝統的な食材がたくさんありますよね。また、それらを活かした郷土料理もバラエティー豊かです。さらに、お正月をはじめとして、年中行事の際に食べられる料理にも特徴があります。「旬」の食材という考え方があり、その時、その場で食べることに価値をおいてきたという伝統があるのです。こうした「地域の伝統」に根ざした食文化を守り、次世代へとつないでいくことを重視しようという運動なのですね。
こうした「ファストフード」「スローフード」という考え方を、独自の観点で捉えなおしたのが哲学者で東京大学教授の國分功一郎先生です。著書である『暇と退屈の倫理学』の中で先生はこうおっしゃっています。
「ファストとかスローとかいった性質は、その食事の含む情報量が多いか少ないかによって決定される。」「ファスト・フードは情報量が少ない食事、すなわちインフォ・プア・フードと呼ばれるべきであり、スロー・フードは情報量が多い食事、すなわちインフォ・リッチ・フードとと呼ばれるべきである。」と。これはどういう意味なのでしょうか?
國分先生は具体的な例を挙げて説明します。「たとえば、質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない。情報が少ないのだから、口の中等々で処理するのは簡単である。まったく時間がかからない。だからすばやく(ファスト)食べられる。」と。それに対して味わうに値する食事には大量の情報が含まれているといいます。「たとえば、ハンバーグなら、合い挽き肉に独特の味わいがある。牛肉の強いクセと豚のさわやかさだ。そこにタマネギの甘みが絡まる。タマネギは炒めてあるから、そこには甘みだけでなく香ばしさもある。これだけでも処理するのが大変である。」「つまり、味わうに値する食事は結果としてゆっくり(スロー)食べられることになる。」と。
この例を通して國分先生は何を伝えたいのでしょうか?実は「食を楽しむためには明らかに訓練が必要である」ということなのです。「複雑な味わいを口の中で選り分け、それをさまざまな感覚や部位で受け取ることは、訓練を経てはじめてできるようになることだ」とおっしゃいます。そして「食」を例に挙げることによって、一般的に「楽しむ」ためには「訓練が必要だ」ということ、「楽しむ」ことはけっして容易ではない、ということを伝えたかったのでした。「教育は、…楽しむ能力を訓練することだ」というラッセル(イギリスの哲学者)の言葉も引いています。
インフォ・リッチな「スローフード」を「古典文学」に、インフォ・プアな「ファストフード」を「ライトノベル」に置きかえてみると、その言わんとすることは理解できるのではないでしょうか。「古典文学」を楽しむためには相当の訓練が必要であるのは皆さんも了解できるでしょう。「スローフード」のシンボルマークが「カタツムリ」であることも示唆的です。もちろん「ゆっくり」という意味なのですが「思慮深い」という意味もこめられているのですよ。
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]]>「思い立ったが吉日」
女子生徒が鞄につけていた「お守り」に目がとまりました。なんとも色鮮やかで、お花の模様が描かれている「かわいい」お守りだったからです。「京都のおばあちゃんが贈ってくれたお守りなんですよ」と、説明をしてくれました。その時は知りませんでしたが、後から私も調べてみましたら、京都の東山区にある勝林寺というお寺の「お守り」だったようです。勝林寺は「SNS映えする花手水(はなちょうず)」で有名なお寺なのです。「花手水」というのは、神社やお寺の参拝前に手や身を清める「手水鉢(ちょうずばち)」の中に花を浮かべたもののことです。手水鉢の中に色とりどりの花が浮かんでいる風景がとてもかわいらしく、「フォトジェニックな写真が撮れる!」と若い世代を中心に話題になっているのです。勝林寺の花手水は「とにかくゴージャスなのが特徴」だといわれていますよ。私もインターネットで検索して確認してみましたが、手水鉢に花を浮かべるというよりも「花を盛る」と表現する方がしっくりくるほど、華やかにお花がしきつめられているのです。
でもその時に私が注目したのは、お守りの「お花の柄」ではなく、そこにご本尊として記されていた「吉祥天女」という刺繍でした。「めずらしいね!吉祥天のお守りは初めて見たよ!」と声に出してしまったほどです。吉祥天というのは、インドの神話に由来する豊穣や福徳をつかさどる女神のことです。インド神話ではラクシュミーという名前の女神様でしたが、仏教の世界に取り入れられて吉祥天という名前になったのでした。日本に伝わった歴史は古く、奈良時代に花開いた天平文化を代表する絵画として『薬師寺吉祥天像』が挙げられますが、そこに描かれているのがまさに「吉祥天」なのです。「三日月眉・切れ長の目・赤い小さな唇・ふくよかな頬」という「天平美人」の表現が特徴です。国宝に指定されていますからね。国際色豊かな「シルクロードの終着点」と称される「天平文化」は確認しておいてくださいね。聖武天皇の時代ですよ。
「このお守りは『学業成就』のお守りとして鞄につけているの?」と聞いてみたところ、「特に考えてはいません。おばあちゃんがくれたかわいいお守りだったから。」という答えでした。「吉祥天」といえば「美と豊穣と幸運」の守り神ですからね。おばあ様も「孫の幸せ」を願って贈ってくださったのでしょう。「でも知ってる?吉祥天は、願えば数学の問題が解けるというエピソードを持つ女神なんだよ!」「本当ですか!知りませんでした!」
インドの有名な数学者にラマヌジャンという人がいます。1887年に生まれ、1920年に亡くなった人ですので、すでに没後100年が経過しています。彼は「天才的なひらめき」をもった数学者と言われてきました。毎日のように新しい数学的発見をノートに記し、周囲を驚かせたのです。現在では20世紀を代表する大数学者と讃えられていますが、当時、彼の業績はなかなか評価されず、失意の中で32歳の短い生涯を終えたのでした。なぜ評価がされなかったのか。それはそこに「証明」がなかったからです。数式を導き出す論理的プロセスをとばして、一気に結論を提示したからです。この方法が、数学界では認められませんでした。ではラマヌジャンはどうやって数式を導き出していたのか?彼は言います。「ナマギーリ女神が舌に数式を書いてくれる」と。ナマギーリ女神とは、ラマヌジャンの地元で信仰される女神で、ヒンドゥー教のラクシュミーという女神のローカル版だといえます。そのラクシュミーが仏教に取り込まれ、吉祥天として日本にも伝わってきていることは先に述べたとおりですよね。
「じゃあこの『吉祥天』のお守りを持っていれば、数学の問題が解けるようになるっていうことですか!私、数学が苦手でなんです!」「だといいけどね(笑)。」ラマヌジャンは女神への信仰の証(あかし)として「数学の問題を解く」ということに、のめりこんでいったのですよ。お祈りをすることを朝昼晩の習慣とするように、数学の問題を解くことを習慣化することで、たどり着いた境地なのだといえます。ですから、同じように「習慣化」すれば、少なくとも数学への苦手意識はなくなるのではないでしょうか。
「せっかく『吉祥天』のお守りをつけているのだから、これも何かの縁ですよ。お守りを思い出したら、数学の問題を一問解く!を習慣にしてみましょう。『思い立ったが吉日』です。すぐに始めましょう!」と、生徒にはアドバイスをしました。
「思い立ったが吉日」というのは「何かを始めようと思ったときには、直ぐに実行に移したほうがよい」という意味のことわざですね。ある生徒が面白いことを教えてくれました。「その日以降は全て凶日」というものです。少年マンガの主人公が口にしたセリフだそうで、「始めなければヤバイ!」という気持ちが倍増するのだそうです。これは心理学的には「カウントダウン効果」というものですね。「期限を知らせると、つい行動してしまう」というもの。いい発想だと思います。
あらためて「習慣化」の重要性を認識してくださいね。「卓越性(優秀さ)は、一つの行為ではなく、習慣によって決まる。繰り返し行っている事が、われわれ人間の本質である」というのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉ですよ。
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]]>「眼光紙背に徹す」
「がんこうしはいにてっす」と読みます。中国の古典に由来していそうですが、これは日本の江戸時代の儒学者の言葉です。「書物を読んで、字句を解釈するだけでなく、その深意までもつかみとること」という意味になり、そこから「注意力や理解力が鋭いこと」のたとえとして使ったりもします。人気ドラマの主人公が「あなたは鶏群の一鶴、眼光紙背に徹す」というセリフを口にしたそうで、生徒から質問がありました。
「『紙の裏まで見通す』という意味ですよね。例えば、本の表紙のタイトルだけ見て、その内容まで理解してしまうとか。洞察力の鋭い人のことですよね。」
この生徒は、少ない情報から、それを補って余りある自身の予備知識を使って考察し、正しい内容を推理する、という「名探偵」のようなイメージで受け取っているようです。
「確かに、捜査官というドラマの登場人物の仕事ならば、『残された手がかり』から、状況を把握して推理することが大事になると思うけどね。でもそれを読書にあてはめて、『本を読まずに推理している』と考えるならば、それは大きな間違いだと思うよ!」
生徒にあえて「間違ってるよ」と伝えたのは、「文章を読まずに理解すること」に価値があると勘違いしてもらっては困るからです。あくまでも「眼光紙背に徹す」というのは、書物に文字として書かれた情報は全て把握した上で、さらに「その先」へと透徹する思考力のことなのです。「書いてあることは理解した。でもこれが全てではない」と考えること。なぜならば「書を著す」ということは、「書くこと」と「書かないこと」との選別に他ならないからです。一つの文章の裏側には、文章としては残されずに、消されてしまった多くの言葉が存在するということ。「紙背」というのは、そうした「書かれなかった文章」という意味です。文章を書いた人物が「あえて書かなかったこと」に意識を向けること。「なぜこちらを取り上げて記述し、あちらを取り上げなかったのか」という考察をすることで、場合によっては「筆者に都合のよいことだけで、論理を構築しているのではないか」と疑い、論理の飛躍はないのか?矛盾はないのか?と徹底して考え抜くこともあります。それが「筆者の意図を探る」ということの意味、「紙の裏まで見通す」ということなのですよ。
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国語の記述問題を苦手としている生徒から相談がありました。「どうすれば答案が書けるようになるでしょうか?」と、ずいぶんとストレートな質問です。よほど切羽詰まっているようでしたので、実際に答案を書いて見せてくれないかとお願いしました。そうすれば、どこに問題があるのか現物の作成答案を前にして、具体的なアドバイスを与えられるだろうと考えたからです。そして、目の前で入試問題を解き始めた生徒の様子を観察していて、驚きました。いや、心配になったと言えるかもしれません。なぜなら、問題と解答用紙を前にして、ピクリとも動かないからです。鉛筆すら手に持っていません。腕組みこそしていませんでしたが、机の上をにらみつけるように考え込んでいる姿は「長考する将棋棋士」さながらでした。まるで次の一手は何か?を考え抜いているかのようです。たまらず「鉛筆を持って、何か書いてみないことには始まらないよ!」と声をかけてしまいました。
将棋棋士が、最善の手はなんだろうと時間をかけて頭の中でシミュレート(駒を動かして考えてみること)している様子を表すのに、ぴったりの言葉があります。それが今回紹介する四字熟語「千思万考」なのです。藤井聡太八冠が、竜王戦を制した際に揮毫(きごう:毛筆で言葉を書くこと)した色紙に記されていましたよ。「竜王戦の2日制の長い持ち時間の中で、深く考えることもできた。一方で深く考える中で、すべてをしっかりと掘り下げて、比較することがなかなかできなかったところもあった」と振り返っていました。32手先を読んだ、と言われる藤井棋士です。実に10億通り以上の局面をシミュレートしなくてはなりません。「千思万考」は「何度も繰り返し考えること。あれこれ深く考えて思いをめぐらすこと」という意味になりますが、本当に「千」「万」という単位で考えているのが、棋士ですよね。ちなみに四字熟語に登場する「千」「万」という数字の意味は「数が多いこと」を表すたとえですからね。具体的な数値を表しているのではありません。ですから他にも「千○万□」という数字を使った四字熟語が多数存在しますよ。思いつきますでしょうか?いくつか挙げてみましょう。
「せんしばんこう」と同じ読み方をする四字熟語があります。「千紫万紅」と書きますよ。色とりどりの花が咲き乱れている様子を表しているのです。他にも「千変万化」(変化の多いこと)、「千差万別」(さまざまの違いがあること)、「千客万来」(多くの客が次々とつめかけること)などなど、「たくさん」という意味をもつ「千」と「万」ですからね。
さて、問題を前にして「千思万考」しているかのように見える生徒です。頭の中で、あれこれ記述答案を「シミュレート」してみているのでしょうか。タイミングがくれば「完成答案」が脳裏に浮かんできて、それを書き写してくれるのでしょうか。まるで、どこかからか正解が「おりてくる」ように。断言しておきましょう。頭の中で答案が完成することはない!と。
将棋の世界で「次の一手」を考え抜くのは、「ためしにやってみる」ということが勝負においてはできないからです。だから頭の中で「ためす」のです。「千」も「万」も、ためしてみるのです。それでも間違うかもしれない、というおそれと戦いながら、決断して手を打っていくのです。打ってしまえばもう後戻りはできませんから。それに対して「答案作成」は、一発勝負でもなんでもありません。何度もためしに書いてみることができるのです。
記述は嫌いなんです!と宣言する生徒に、「どうして記述が苦手なの?」と聞くと、同じような答えが返ってきます。それは「答えが思い浮かびません」というものです。ですから棋士のように固まっていた生徒は、分かりやすい態度を示してくれただけで、苦手とする生徒はみな同じように、「頭の中」で答えを見つけ出そうとして苦心しているのだと思います。
繰り返します。「頭の中で答案は完成しない!」と。では、どうするか。「ためしに書いてみる」ことなのです。答えを書こうとするのではありませんよ。「気になった言葉」でかまいません。単語でもいいのです。文章中から書き抜いてください。そこから始まるのです。いくつか言葉を書き写し、結びつけようとして言葉を書き加え、意味を持った言葉の連なりになって初めて、「答えのようなもの」が見えてくるのです。決して最初から「答え」が分かっているわけではないのです。目の前で、言葉をためしにつなげてみているうちに、「こんな意味になるのか!」と「発見」するものなのです。
書いてみる前には、どんな答えになるのか分からない、というのが当たり前なのだと心得てください。だから「鉛筆を持って、先ずはひと言、書き出してみる」ということが、記述問題の攻略にとって、何よりも必要になるのです。「答えは思い浮かばない」ということ。「きっかけは文章中に必ずある」ということ。思い悩む前に「できるはずだ!」と一歩を踏み出してみてください。全てはそこから始まりますよ。
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「凡事徹底」
「時間や手間をかけずに、結果を残したい」というコスパ最強の考え方に対して、そこから最も遠い地点にあると言える対極的な考え方は「時間や手間をかけなければ、結果は残せない」というものになるでしょう。しかし、「膨大な時間と手間をかければ成功する可能性が上がります」と言ってしまえば、「それは当たり前でしょう!」と誰もが思うだけで、むしろ「もっといい方法はないのか?」とコスパを意識する方が健全な反応だとも思います。重要なのは「どのように取り組むのか」という姿勢の問題になるのです。
「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところへ行くただ一つの道」だと語ったイチロー選手を思い出します。メジャーリーグの年間最多安打記録を打ちたてた際の記者会見での言葉です。イチロー選手は、まだ日本のプロ野球の新人だった時に、「今までに、これだけはやったなと言える練習はあるか」と聞かれたことがあるそうです。その際に次のように答えました。「僕は高校生活の3年間、1日にたった10分ですが、寝る前に必ず素振りをしました。その10分の素振りを1年365日、3年間続けました。これが誰よりもやった練習です」と。「小さなことの積み重ね」が結果的に「膨大な時間と手間」をかけたことになっていればいいということです。
「凡事徹底」という四字熟語があります。「凡」という文字には「ありふれた」「ふつうの」という意味があり、「凡事」で「ありきたりなこと」「当たり前のこと」を表しています。「徹底」は、「態度・行動が中途半端でなく、一つの考え方で貫かれていること」です。「凡事」と「徹底」の二つの熟語を組み合わせた「凡事徹底」は、当たり前のことを徹底的に突き詰めて行うことを言い表す四字熟語になります。
「素振りを10分」は基礎的なことですが、毎日欠かさず続けることが重要です。まさに「凡事徹底」です。「とんでもないところへ行くただ一つの道」という言葉の重みを感じて下さい。皆さんもぜひ「1日10分」でいいですから「続けられること」を始めてみてください!イチロー選手が「寝る前に」実行していたように、どのタイミングで行うかは決めておくべきです。それは「寝る前には歯を磨く」と同じように「習慣」にするためです。学校から帰ったらすぐにノートに数学の問題を解く、寝る前に必ず英語の音読をする、こうした積み重ねが学力を引き上げる道筋となるはずです。
また勉強だけでなく続けてほしい習慣があります。「経営の神様」との異名を持つ、パナソニックの創業者である松下幸之助さんは、人材育成において「凡事徹底」を教育方針の一つにしていました。その内容は「挨拶をすること」「整理整頓をすること」など、身の回りのことを意識して実行するということです。「必ず行う」という姿勢が重視されました。
皆さんも「朝友達に会ったら大きな声で挨拶する」ことや「夜ベッドに入る前に、机の周りを整理整頓する」といった、習慣にできることから始めてみてください。気持ちがすっきりとして、前向きに物事に取り組めるようになりますよ。目に見えるほどの変化は起きなくても、毎日続けることで確実に成長していけるのです。
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]]>「ハンチング」
「先生、物語文の中に『ハンチング帽』って出てきたのですが、それは何ですか?」
時間さえあれば「読書」を心がけている生徒からの質問です。ただし「ライトノベル」が中心です。「物語文とか言っているが、推理小説か何かを読んでいたのだろう!」「先生、よくわかりましたね。登場人物が被っていた帽子です。」
「ハンチング帽」というのは、19世紀半ばからイギリスで用いられるようになった狩猟用の帽子のことです。日本語では「鳥打ち帽」と訳されることもあります。生徒が質問したかったのは「なぜハンチングという表記がされるのか?」ということだったようです。狩猟用ということであれば「ハンティング」が正しいのではないか?という疑問です。これは日本語の「なじみ」(慣れ親しみ、不自然な印象がないこと)の問題で、「プラスティック」が正しくて「プラスチック」は誤りだ、ということでもないのと同様に、「ハンチング帽」とこれまで表記がされてきたのですね。
また、どうして「ハンチング帽」が「探偵っぽい雰囲気」を示す小道具になったのかといえば、もちろんコナン・ドイルの小説の登場人物シャーロック・ホームズが被っていた帽子が「鹿撃ち帽」だからですよね。この小説の挿絵の中で描かれた「ハンチング帽を被ったシャーロック・ホームズ」というスタイルが、探偵のイメージとして世間に流布されることになったのです。
さて「ハンチング」は「狩り」のことですが、「鳥打ち」や「鹿撃ち」というように、鳥や小動物を「捕獲する」という意味です。そこから「狩り」の用法を広げて、獣だけではなく果物などを「採集する」という意味でも使われたりします。「いちご狩り」や「ぶどう狩り」や「きのこ狩り」という言い方ですね。また「潮干狩り」も、この採集するという意味で理解できるでしょう。そしてこうした「自然の中で何かを探し求める」という意味の延長線上に、自然を「観賞する」という内容も含まれて、「紅葉狩り」や「蛍狩り」という言葉が成立するのでしょう。「蛍狩り」は、昆虫採集ではありませんからね。蛍が闇のなかで微かな光を放ちながら飛び舞う姿を愛でる行為なのです。
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「自分で自分に問いかけ、自分で答えること」という意味の四字熟語になります。試しに「自問自答」と入力して、ネットで画像を検索してみました。すると『考える人』の画像が次々と画面表示されたのです。なるほどね、と思わず納得してしまいました。
『考える人』というのは、「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの代表作といえるブロンズ像です。座ったまま前方に体を傾けて、折り曲げた右手の拳に歯をあてているという独特のポーズは、どこかで皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。実物を確認したければ、上野にある国立西洋美術館に足を運んでみてください。美術館の前庭に設置してあるので、「入館料」を払わずとも見学することができますよ。「それってレプリカ(複製品)で、本物じゃないですよね?」と思うかもしれませんね。ブロンズ像は原型をもとに鋳造するという作成過程を経ますので、「正式な許可のもとで鋳造された作品」をオリジナル作品と呼びます。『考える人』には、フランス政府が認めたオリジナル作品が21体存在します。そして上野の『考える人』は、オリジナル作品に間違いありません。ぜひ本物を、じっくりと鑑賞してみてください。また国立西洋美術館本館の建物は20世紀の建築界の巨匠であるル・コルビュジェが設計したもので、2016年には世界文化遺産にも登録されていますからね。
「自問自答」の代表的なポーズとして『考える人』が登場しましたが、「実は、『考える人』は何も考えていない!」という説があります。雑学クイズの問題で取り上げられたりしたこともありますよ。『考える人』は、もともとロダンの『地獄の門』と呼ばれる巨大な彫刻作品の一部分なのです。『地獄の門』という作品の中で「地獄に落ちていく罪人を上から見つめている人」を表現しているのが『考える人』の本来の姿なのです。ですから、何か考え込んであのポーズを取っているというよりも、上から地獄へ落ちていく罪人を見つめているポーズであるということで、「何も考えてはいない」という話になるのですね。ちなみに『地獄の門』も国立西洋美術館にオリジナル作品が展示してあり、自由に見学することができます。作品の上のほうに、しっかりと「考える人」が存在することも確認してみてくださいね。
さて「自問自答」の意義についてです。「どうすれば国語の成績を上げることができますか?」という生徒からの切実な問いかけは、国語の先生である私にとって、最も頻度の高い質問だといえます。具体的な対処方法は、生徒それぞれに応じてもちろん違うのですが、根本となる「心構え」については同じ回答をしています。そもそも「満点を狙っていたか?」と。多くの生徒が、これまでの経験や周りを見ての判断なのでしょうが、「国語は百点満点の取れない科目」だと決めつけていることが多すぎます。それではダメなのです!「国語は満点でなくてはならない」と考えを改めてください。答案という「自分の考え」を提出しておきながら、テストが返却された際に「今回は80点か。平均点は越えているし、まぁいいかな」「えっ、70点しか取れてなかった。次は頑張ろう」といった「ヌルい」反応になってしまうからダメだというのです。「何点とれたか」ではありません。「間違い」があったことに対して「おかしい!なぜだ!」という反応でなければならないのです。全部正解で満点のはずだ!という答案への自負、こだわりがないようでは、国語は戦えないと心得てください。正解かどうかがはっきりとしている数学とは違って、「なぜ減点されたのか?」「どうしてバツなのか?」という、自ら問いかける姿勢が国語には必須となります。自分の答案にこだわりがないと、模範解答をながめて「そんなものか」と受け入れて、それでおしまいになってしまいます。なぜこれが正解なのか?自分の答案と何が違うというのか!「拳を歯にあてて」「地獄を見つめるように」食らいついてください。簡単に納得してはいけませんよ。そのための最良の方策が「自問自答」の習慣づけなのです。腑に落ちるまで徹底的に考え抜くというスタイルを、ぜひ身につけてくださいね。
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]]>「羽振りがよい」
「先生、大発見です!」と、嬉しそうに報告してくれた教え子くんがいます。「辞書を引いていて見つけたんですけれども、こんな偶然ってあるでしょうか!」と、興奮冷めやらぬ様子です。「一体、何を発見したっていうの?」とたずねると「羽振りがよい」という言い回しを、辞書で調べたのだと言うのです。
「羽振りがよい」というのは、「財力があり、気前がよいこと」を意味する慣用表現です。「世間における地位・勢力・人望に恵まれ、威勢がいい」というところから、具体的な場面として「周りの人達に対して、気前よくお金を使う」という行動になって現れるということなのですね。「羽振り」という言葉は、もともとは「鳥が威勢よく羽ばたくこと」という意味でしたが、その威勢のよい様子から比喩的に「地位や権力や金力があり、勢いのあること」を表す言葉へと転じたと考えられています。
「それで、大発見というのは何だったの?」と、再びたずねると「辞書で隣に並んで載っている言葉は何だと思いますか!」「『羽振りがよい』の隣?何だろう、思いつかないね。」「『バブリー』なんですよ!『バブリー』!」
「バブリー(bubbly)」というのは、英語本来の用法では「泡立っている」といった意味合いの表現ですが、「バブル景気」という日本語を前提として「バブル期的な思考、金遣い」などを意味する場合が多いのです。まさに「景気よくお金をぱっぱと使う様や、そういったお金の使い方をする人」を意味しています。確かに「羽振りがよい」と並んでいるのは偶然にしても出来過ぎといった感じですね。いや、「バブリー」が辞書に載っているということにさえ驚きなのですが、もはや「歴史的な用語」という扱いなのでしょうね。
「バブリーな時代の象徴として、羽毛のようなフサフサした飾りのついた、色が派手だったり光がキラキラ反射する素材だったりする、大ぶりな扇子があるじゃないですか。」「よく知ってるね『ジュリ扇』っていうんだよ。」「まさに『羽振りがよい』という言葉の意味、そのものじゃないですか!」
教え子くんの言う通り「大発見」で間違いないでしょう。私もなんだか感動しました。こうした自分で「発見」した内容というのは、感動とともに記憶に深く刻み込まれるものです。とてもよい学習の機会でもあったと思いますよ!
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]]>「マインドセット」
野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)は、マイアミの「ローンデポ・パーク」で決勝が行われ、日本が前回王者であるアメリカを3-2で下し、2009年第2回大会以来14年ぶり3度目の優勝を果たしました!連日の熱戦を、文字通り「テレビの前にかじりついて」応援していましたね。中でも大会MVPに輝いた大谷翔平選手は、まさに八面六臂(はちめんろっぴ:一人で何人分もの活躍をすること)と呼ぶにふさわしい活躍でした。
決勝戦の前、大谷選手はロッカールームでの円陣で「声出し」(チームのメンバーに檄をとばすこと)を今大会で初めて担当し、その様子を撮影した動画が「侍ジャパン公式ツイッター」で公開されて大きな話題を呼びました。その内容は「僕から一個だけ。憧れるのをやめましょう」という言葉からから始まるものでした。
「ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日超えるために、トップになるために来たので。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう!」
これは心理学的には「マインドセット」の変更と呼ばれています。「マインドセット」というのは、「今までの経験や持っている知識、先入観、信念、他者との関係性などさまざまな要素から成り立ち、その人の思考や行動の根幹を形作っているもの」です。野球選手としての経験を積んできた人物ならば、誰しもがそう考えてしまう「野球選手のマインドセット」があるのです。スーパースターに「憧れる」のが当たり前なのです。でも、それでは超えられない。チェンジ!関係性を変更しよう!「憧れ」から「競い合う相手」へと。
このことは「第一志望」にもいえることではないでしょうか。「第一志望」に憧れているだけではだめなのです。現実に格闘しなくてはならない相手そのものなのですから。大谷選手にならって「憧れを捨てて、合格することだけ考えていきましょう!」と皆さんに檄をとばしたいと思います。
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]]>「糧にする」
「失敗を糧にすることでしか、成長はできない」というのが、長年生徒を教えてきて得た、私なりの教訓でもあります。この「糧にする」という言い回しが、本当にしっくりとくるのです。「糧」という言葉は、「食糧」という熟語があるように「食べ物」という意味が基本になります。そこから生じて「精神・生活の活力の源泉」という、人間を豊かにして力づけるものという意味を持つようになるのですが、まさに「糧にする」というのは「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」というゲーテの言葉と相まって、人生の血肉となる経験を指しているように思えるのです。
「人は失敗からしか学べない」というと極端ですけれども、「失敗を経験すること」「失敗を乗り越えること」には重要な意味があると思います。自分でやり方を考え、工夫し、うまくいかないときには反省して修正する。これこそが中学生に求められる勉強法なのでしょうから。中間テストや期末テストは、そのためのチャンスだととらえて下さい。こういうと「テストがうまくいかないのは困ります!」と、君たちは思うかもしれません。でも失敗してもいいのです。むしろ中学生の時期に失敗をたくさん経験することが大事なのです。「失敗させない教育」というのは、生徒に困難を乗り越える訓練をさせないのと同じであると、最近では文部科学省でもそう考えているのですよ。
「青少年の成長過程にあっては、効率を追求して間違いや失敗のない必要最小限の経験を大人が選んで青少年に行わせることが必ずしも最善とは言えない。青少年自身が多様な体験を通じて試行錯誤する中で成長実感を得るとともにつまずきを乗り越える自信と力量を養い、経験知を獲得し、主体性をはぐくむことが必要である。」
これが現在の中教審の見解です。ですから、皆さんも堂々と、中間テストや期末テストで失敗してください!文科省のいう「経験知」とは、文字通り「経験」を通してしか身につけられない技能や体感などのことです。失敗や苦労を重ねつつそれを乗り越え、挑戦を繰り返すなかでしか体得できないことがあるのです。そして、このような試行錯誤を通じて「自分にもできたのだ、がんばればできるのだ」と、成長を実感するのです。この「自分はやればできる」という感覚が大切なのですよ。
JUGEMテーマ:教育
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「クリエイター」
「将来はクリエイターになりたいです!」という生徒に対して「何を創造したいの?」という質問で返してしまいました。「パティシエール(女性パティシエ:菓子作り職人)」になりたいです!」という生徒に対しては「頑張ってね!」と返したのですが。別に意地悪で質問したのではありませんよ。生徒が「クリエイター」にどんなイメージを持っているのかがわからなかったものですから。
「クリエイター」は「クリエイトする人」という意味であり、「クリエイト」というのは「創造する」という意味の言葉だからです。「創造する」というのは「新しいものを初めて作り出すこと」という意味になりますので、生徒に「一体何を新しく生み出したいの?」と聞いてみたくなったのです。生徒の答えは「ゲームクリエイター」でした。コンピューターゲームの開発者になりたいということですね。他にもCMなどの広告の制作を手がける人や、作品を生み出す人すなわち作家や作曲家も「制作者」「創作家」という意味で「クリエイター」といえるでしょう。新しい創作菓子を生み出すのならパティシエールもクリエイターの一種であるでしょう。
「クリエイティブ(創造的)になるためには、どんな勉強をすればよいでしょうか?」という質問がきました。何かを覚えればすむという話ではありませんよね。クリエイターに求められるのは「明確な意図をもって、新しいものを作り出そうとすること」です。そうした「姿勢」を学ぶことがとても重要になります。ゲーム開発者にも、パティシエールにも求められる姿勢ですよね。では受験勉強を通じて、どんな準備ができるといいのでしょうか?
「クリエイターの意図を意識すること」に敏感になってください。ゲームをプレイするにしても、漫然と楽しむだけではなく、「どうしてこんな仕掛けになっているのだろう?」と、背後に存在するゲーム開発者の意図を探るようにするのです。開発者の視点を持つことが大切なのだといえます。国語の読解問題を解く際も同様です。テストの問題を作成している人物を意識しましょう。受験生よりも先に出題文を解釈して、それに基づいて設問を作り上げている人物です。この存在を忘れてはならないのです。国語の読解で最も大切なのは、この「作問者」の意図を探ることなのです。「どうしてこんな問いかけになっているのだろう?」という視点で、設問に向き合ってみてください。なるほどそういうことか!と作問者の意図に気づくことが、答案作成の要であるということも理解できるはずですよ。
JUGEMテーマ:教育
]]>「プログラミング」
「先生!eスポーツで入試が行われるようになるのでしょうか?」教え子君が突拍子もない質問をぶつけてきました。eスポーツというのは「エレクトロニック・スポーツ(electronic sports)」の略称で、コンピューターゲームやビデオゲームを使ったスポーツ競技のことを指します。スポーツというとアスリート(身体運動に習熟している人)を思い浮かべるかもしれませんが、要は複数のプレイヤーで対戦するゲームをスポーツだと解釈してeスポーツと呼んでいるのです。アメリカではすでに、国がeスポーツをスポーツとして認めており、プロゲーマーがスポーツ選手であることも認められています。
「世界的なゲームメーカーがある日本なのに、まだまだeスポーツの認知度は低いよね。世界からはeスポーツの後進国と呼ばれているくらいだから。いきなり入試に登場することはないと思うよ」と、答えたものの面白い視点だと感じたのでした。現に、早稲田大学の自己推薦入試では、卓球で活躍した生徒や囲碁で活躍した生徒が合格を果たしています。ですからeスポーツで活躍した生徒が合格するのもそれほど遠い未来の話ではないように思えるのです。「でも、学校の授業でやることが決まったと聞いたので、授業でやるなら入試にも出るかなと思って」と教え子君は続けます。驚いた私は「教育現場にeスポーツ導入だって!一体どこの自治体の話なの、それは?中高生の放課後の居場所づくりという事業では、多人数で遊べるビデオゲームを導入して成果を上げたという話を聞いたことがあるけれど、あくまで学校外の話だよ。授業でやるってどこで聞いたの?」と逆に質問してしまいました。「中学校の授業で必修化されるって…」「ああ、それはプログラミング教育のことだよ!」
教え子君は「プログラミング教育必修化」という情報に何らかのメディアで接する機会があったのでしょう。もしかしたらその際にニュース映像で「コンピューターの画面に向かう生徒」というシーンでも目にしたのかもしれません。そこで自分なりの解釈として「学校でコンピューターをさわってゲームをする授業」というイメージをふくらませたのでしょう。でも、もちろんプログラミング教育はコンピューターゲームをする授業ではありませんからね。
プログラミングとは「プログラムを設計すること」であり、プログラムとは「コンピューターに対する指示」のことです。プログラミング教育とは、コンピューターが情報を処理するためのプログラムを設計することで、論理的な思考力・創造力を身につけることを目的とした教育なのです。文部科学省は改訂された学習指導要領で、2021年から中学校のプログラミング教育必修化を決定しています。「じゃあ先生、プログラマーをみんなで目指すのですか?」eスポーツとかプログラマーとか、言葉はよく知っている教え子君です。プログラミング教育のねらいは「プログラマー(プログラミングを行なう人)」の育成ではありません。「プログラミング的思考」を養うことなのです。文部科学省では「プログラミング的思考」を次のように定義しています。「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」であると。プログラミングによって学べる力は「論理的思考力」「自発的な学習能力」「問題解決力」であるといわれています。プログラムは、処理手順に沿って作業しなければエラーが発生してしまいます。エラーが発生した場合には、なぜエラーが発生したのか原因を探り(論理的思考力)、対処方法を自分で考えなくてはなりません(問題解決力)。その際、自ら調べることが必要となるため(自発的な学習能力)、プログラミングは教育内容として優れているというわけです。「ということは、プログラミングが入試に出るようになるのですね!」と教え子君。
学習指導要領の改訂では確かに「プログラミング教育の必修化」が打ち出されましたが、それは「授業で扱う題材として必ず取り上げるように」という意味で、「科目」として独立するわけではありません。文部科学省が提示している「モデル授業」でも、様々な学年での取り組みが示されていますが、何年生で取り上げても構わないという扱いですので、学校によっては扱う学年が違ってくるのかもしれません。科目ではありませんので、高校入試での「受験科目」になることも、現時点ではないと考えられますよ。新しい取り組みですので、授業の工夫について、各学校では「外部の専門家を招いて担任の先生への講習会」が盛んにおこなわれています。私の友人も、都内の学校に講演に出向いています。どんな内容を話したのか聞いたところ「ゴール(目的)から逆算して、何をすべきなのかを考えることのできる」思考法を身につけさせることが重要だ、ということだそうです。コンピューターをいじれる、というイメージが先行していますが、そうではないオーソドックスな「思考法」についての教育が大切になる、とのことです。eスポーツはゲームの操作や戦略を競うものですので、プログラミング教育とは直接的には関係してこないですが、「面白いゲームをつくるという目的のためには、どんな工夫が必要なのか」といったプログラミングの導入に、ゲームが取り入れられることは大いにありうると思いますよ。
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「一期一会」
今回紹介しようと思った四字熟語が頭に浮かんだのは、ある教え子くんのお母様からの相談がきっかけでした。それは「どうしてウチの子は、口をすっぱくして言ってきかせても、勉強法を変えようとしないのでしょうか?理解に苦しみます!」という、悲痛な叫びから始まるものでした。「問題を解いたら解きっぱなしで、テストの前にもう一度見直すということを、なぜしないのでしょうか?」お母様のおっしゃる通りです。間違い直しを効率的にこなすことは、とても重要になります。解きっぱなしだけではなく、直しっぱなしという問題でもありますよね。テスト前ならなおさら意識しなくてはなりません。「そもそも間違えた箇所をノートに書き写しておけば、テスト直前にノートを見直すだけで一度に復習ができてしまうというのに、どうしてノートをつくってくれないのでしょうか?」素晴らしいアドバイスです。お母様のお話は経験に基づいた説得力があると思います。「では、なぜ、ウチの子は、言うことをきいてくれないのでしょうか?」それはですねお母様、「今、わざわざ直さなくても、また次の機会は、やってくる」と、お子さんが無意識に思っているからなのです。「やったほうがいい」とは、お子さんもお母様の話を聞いて、頭では理解しているでしょう。本人も「いつかやるつもり」でいると思います。でもそれは「今でなくてもいいだろう」なのです。
この「今じゃなくてもいい」という感覚は、実は人間にとって根深いものがあると思います。昨日と同じように今日が続くこと。今日と同じように明日が続いていくこと。「特別のことがなく繰り返される毎日」を意味するのが「日常」という言葉になりますが、人間にとって、この「日常」を送ることができるということが「幸せ」の根本にあると考えられるからです。対極にあるイレギュラーな事態を「非日常」と呼ぶことになるわけですし、わが身に降りかかる災難はその典型です。ですから、「同じように明日はまたやってくる」という連続性を断ち切って、「今しかない」という決断をするには、相当の覚悟が求められるのです。すなわち「明日はないかもしれない」という悲壮な思いがなければ「今日」の行動には結びつかないということなのです。
そこで思い起こされたのが今回の四字熟語なのです。「いちごいちえ」と読みます。「一期」は「人が生まれてから死ぬまで」を意味する言葉、「一会」は「ひとつの集まり、会合」を意味する言葉です。これを組み合わせて「一生に一度だけの機会」や「生涯に一度限りであること」を意味する四字熟語となりました。「生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する」という心構えを表す言葉でもあります。特に茶道の心得を示した言葉として有名ですよね。「どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきこと」。千利休の言葉とされています。「お茶を飲む」という、日常で繰り返される何気ない行為も、「今この目の前のお茶を飲む」というのは、一生に一度しかできないことなのです。明日飲むお茶は、今日のこのお茶とは違うのですから。お茶を出すほうも、お茶を飲むほうも、一生に一度のタイミングだと心得て、全身全霊を傾けるべきだという教えです。これはやはり、明日のわが身の保障もない戦国時代の世だからこそ、受け入れられていった考え方なのだとつくづく思います。
ですから「明日はない」と思って勉強しなさい!という追い込み方は、「武士」レベルの心理的ストレスをかけることになりますので、ハードルは高いと思いますよ。では、どうすればいいのでしょうか?「今あることの幸せを感じながらお茶を飲む」に通じることですが「今勉強できることに幸せを感じながら『直し』をする」といったところでしょうか。こんな風に思うようになったのは、私も年をとったせいかと思いますが、参考になる考え方を示した書籍があるのです。大学の大先輩でありエッセイストの玉村豊男さんによる『毎日が最後の晩餐』という珠玉のレシピ&エッセイ集です。すごいタイトルですよね。そこには、こう書かれています。「毎日の夕食を食べるとき、あ、これが『最後の晩餐』かもしれない…と思えば、余計なことは忘れて、目の前の食卓だけを楽しむ気分になるだろう」この境地にお母様も立って、お子さんとの毎日の食事を楽しんでみてください!そうすれば、お子さんも、楽しんで「直し」ができるようになるのではないでしょうか。
「先生…なんだか、だまされているような気がするのですが?気のせいでしょうか…」いえいえ、自分にとって、慣れっこになってしまっていることほど、あえて「今しかない!」という気持ちで、「楽しんで」取り組みましょう!という提案です。ポジティブな発想が重要になります。そもそも人間の自然な感覚(「今じゃなくてもいい」)には逆らうわけですから。またこの次もあるから…という意識ではダメなのだ!という点を強調するだけでは、前に進まないと思うのです。そうはいっても、漢字や単語の「確認テスト」のための勉強を「いつもの通り」で流してしまってはいけませんよ!というアドバイスであることにはかわりませんからね。いつもやる当たり前の行為こそ「一期一会」の感覚を持って、「今しかできない」という意識で集中しましょう!ということになると思います。
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]]>「制御不能」
コロナ禍においては、修学旅行に代表されるような「学校行事」について、様々な制限が課せられることになりました。皆さんたちも、中止や延期や変更といった学校側の対応に、ある意味振り回されてきたこの3年だったと思います。とはいえ学校関係者が、「どのような代替行事を実施すればよいのか?」と、頭を悩ませ試行錯誤を続けてきたことは承知しておいて下さいね。そうした模索の中には、学校が行う「体験活動」について「そもそも、どうあるべきか?」といった議論まで含まれているのですよ。
中央教育審議会では「体験活動」のことを「体験を通じて何らかの学習が行われることを目的として、体験する者に対して意図的・計画的に提供される体験」と定義しています。「体験する者」というのはもちろん皆さんたち生徒のことであり、「意図的・計画的に提供」するのが学校の役割になるのです。ですからどうしても、学校側の「意図」に沿わなかったり、「計画」通りにいかなかったりすることについては、教育活動としてはふさわしくないと判断されてしまうことになるのです。「もっと自由な行動を認める体験活動にしてほしいと思います!」という要望があることは知っています。学校も「いじわる」で皆さんたちの声に耳をふさいでいるわけではないのですよ。できるかぎり生徒の自主性にまかせた活動を後押ししたいと学校側も考えています。ですが、計画を立てる側としては「不確定要素」はできるだけ排除したいと構えてしまうものなのですね。とりわけ「自然体験活動」については、生徒の行動のみならず、相手が「自然」なものですから「思い通りにいかない」要素が多分に含まれているため、学校側としても準備がとても大変になるのです。
文部科学省では「自然体験活動」のことを「自然の中で、自然を活用して行われる活動であり、具体的には、キャンプ、ハイキング、スキー、カヌーといった野外活動、動植物や星の観察といった、自然・環境学習活動、自然物を使った工作や自然の中での音楽会といった文化・芸術活動などを含んだ総合的な活動である」と定義しています。身近な「自然体験」として、キャンプ(野外で一時的な生活をすること)に参加したことのある皆さんも多いのではないでしょうか。「飯ごう炊さん」や「キャンプファイヤー」など、小学生の頃からお馴染みの体験であるともいえます。「身近な」「お馴染み」と書きました。ところがこれも準備をする学校側からすると、皆さんとは全く違ったシロモノに見えてくるのです。
「怪我や火傷の危険性を回避しなければならない」「食中毒の危険性も排除しなければならない」「熱中症等の健康管理には注意しなければならない」「急な天候の変化にも対応しなければならない」などなど、「意図的・計画的に提供」をする立場からは「想定外」ではすまされないことばかりなのです。ですからリスクマネジメントの観点から、キャンプ等の活動そのものを専門の業者に委託する学校も多くなってしまうのですね。「好きにさせてもらえない」と感じることもあるでしょうが、理由があってのことだと理解して下さい。
それでも「体験活動がどうあるべきか?」という議論においては、学校関係者もリスク回避のことばかりではなく、自然体験の意義について熱く意見を交わしていたのですよ。「自然体験」というからには「自然」=「100%のコントロールは不可能」という事実を知ることにこそ重要な意義があるのではないのか、という問いかけもなされました。計画通りに活動が進むだけでは確認作業で終わってしまいます。不確定要素がもたらす困難に直面して、「思っていたことと違う」「うまくいかない・できない」という「制御不能」な面を自然の中で経験することにこそ、教育的な価値があるという意見です。「制御不能」に陥らない計画性と、「制御不能」を意図的に経験することの両面を考慮すべきだということになります。
また、人間も「自然の一部」であるということの認識も重要だと考えられました。コントロールできない自然の力というものが、自分の中にも潜んでいるという理解です。自然の豊かさとは何か。それは複雑性であり多様性です。そしてそれは豊かな人間性についても言えることなのです。自分の中にある複雑性に目を向けること。コンプレックスという言葉は、様々な感情の「複合体」という意味なのです。
ですから、自分の感情がコントロールできないからといって、単純にマイナスの評価を下すべきではありません。人目をはばからず大泣きすることや、怒りにまかせて感情を爆発させることも、押さえつけるばかりではなく時には「自然な営み」として認めることも必要になるのです。ただし、「制御不能」を言い訳にして、はじめから無理だと居直ってしまっては「人間の営み」とは言えません。思い通りにはならないことがあると知りつつも、自分ができることに注力すること。これこそが理性の働きなのです。自然体験活動で身につけて欲しい「生きる力」だとも言えます。人間と自然が共生するというのは、一体化すればよいという簡単な話ではありません。文化(理性)を媒介として、人間の生活を自然の中で続けることこそ重要なのだと思います。
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]]>「表裏一体」
「先生!前に言っていたことと違いますよ!どちらが正しいのですか?」長年、生徒指導を続けている私ですが、まれにこうした指摘を受けることがあります。授業の内容ではありませんよ。前回教えたことと今回教えた内容が食い違っているなどということは、プロとしてあってはならないことですから。そうではなく、生徒への「学習アドバイス」について、「前に受けたアドバイスと話が違っている!」という指摘なのです。
もしこれが、中学生になったばかりの一年生へのアドバイスと、受験期をむかえた三年生へのアドバイスとでは、指導する先生の「顔つき」も含めて違っているという話ならば、理解もできると思います。いつもニコニコ優しい顔で接してくれていた先生が、ほんの少しの気の緩みも見逃さない厳しい指導をするようになった、という場合ですね。同じ先生なのにタイミングによって態度が変わるわけですから、「前と違う」という指摘には当てはまるでしょう。でもそれでは、「アドバイスの内容」が違うという話にはならないのかもしれませんね。少し想像してみました。私が以前に何らかのアドバイスをしたとして、そしてその「先生からもらったアドバイス」を大切に胸に刻んできた生徒がいたとして、そこで「以前とは相反するようなアドバイス」をあらためて私から投げかけられたとしたら…当惑するのは当たり前だと思います。さらに想像すると、「先生、話が違います!」と直接口に出して伝えてくれた生徒はごく少数で、心の中でそう思っていた生徒はもしかしたら多くいたのではないか?と、そんな思いに至ったのです。「これは皆さんに趣旨を説明しなければ」と考えた次第です。
具体的に解説するのがいいでしょう。私が同じ生徒に対して与えた、異なったアドバイスについてです。定期テストを前に問題演習を繰り返すことに躍起になっていた生徒に対して、「問題をやみくもに解くだけではだめだよ。理解を深めなければ。納得できるまで解説をしっかりと読むことを心がけて。問題を解いた数は気にしなくてもいいから」と助言しました。その後、解説を読むことに注意を払うようになった生徒に対して、あらためて与えたアドバイスが次になります。「分かったつもりになっているだけではダメだよ。演習を繰り返さなければ。実践の中での気づきこそ重要なのだから、演習量をちゃんと確保して」というものです。確かにこれを同じ日に言われたら「どっちが正しいのですか?」と悩みますよね。でもこの指摘は、同時に行われてもおかしくない「表裏一体」のものだと理解してほしいのです。
「表裏一体」は「ひょうりいったい」と読みます。「二つのものが、表と裏のように切り離せない関係にあること」を意味し「相反するもの同士が実は一つであること」を表現しています。英語にするとイメージがつかみやすいですよ。「two sides of the same coin」になります。「two sides」は「二つの面」つまり「両面」を意味し、「the same coin」は「同じコイン(硬貨)」という意味です。すなわち「同じコインの表と裏」という意味になるのですね。
ただ数多く問題を解くだけでは「理解すべきテーマ」をつかみ損ねてしまいます。きちんとした解説のもとに「基本的なルール」を身につける必要があるのです。一方で、複数の問題を解くことで、そこに共通点(=ルール)を見出し、「一般的な結論(=テーマ)」を導き出すことも可能です。自分でたどり着いた「テーマ」は、身につくこと請け合いですから。生徒にどちらのアドバイスをするのかというのは、生徒の学習状況次第ですし、どちらが正しいというものでもないのです。コインという「全体」からみれば、「表」であっても「裏」であっても、それらはどちらも同じ「部分」だということができます。場合によっては、どちらを「表」にするのか「裏」にするのか、選ぶことも必要になります。それでもコインという「全体」は、「表」だけでも「裏」だけでも成り立ちません。両方必要なのです。
われわれ教師は、生徒の学習状況全体を把握し、その上で、ピンポイントの指摘を行います。「今一番効果的なアドバイス」を心がけるからです。「入試の過去問なんて、やらなくていい!」と言う場面もあれば、「入試の過去問だけやればいい!」と言う場面もあるのです。「計画的に、決められたことを、順序良くやりなさい!」と言う場面もあれば、「優先順位を変えて、時間を度外視してでも、やりきりなさい!」と言う場面もあるのです。決してその場の思いつきで発言しているのではありません。ある水準では「よし」とされることでも、より高次の視点から見れば「だめ」だということがあります。逆もまたしかりで、ある水準では「だめ」だとされることでも、より高次の視点では「よし」ということもあるのです。
生徒の成長が著しい場合、アドバイスを与える間隔がつまってしまい、「前と違う!」という経験をすることもあるかもしれません。でもそれは、「より高次」の助言が与えられた!と理解してくださいね。皆さんの成長を見通した上で、われわれはアドバイスを授けているのですよ。
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「間接描写」
中高生の「作文指導」で難しいのが心情表現です。中学生ともなると喜怒哀楽の感情を「そのまま言葉にする」という表現が、少し恥ずかしくなるということもあります。小学生であれば「楽しかった」「うれしかった」とストレートに表現できるのに、素直になれない自分がいますよね。もっとも、小学生の日記にありがちな「…して楽しかった」「…でうれしかった」の繰り返しでも困ります。それでも「うれしかった」という気持ちはその通りなのだとしたら、「うれしい」を使わずに、どうやってその気持ちを表現したらいいのでしょうか。「うまくいったときには、たいへんうれしい気持ちになりました。」と書いてしまいがちな作文を、どのようにアレンジすれば中高生らしくなるのでしょうか。
そのヒントになるのが今回取り上げた四字熟語です。間接的な感情表現という意味で、小説・物語に登場してくる「間接描写」になります。感情そのものを直接表現するのではなく、その感情が原因となって起こる「現象」や「行動」という結果を描くことで、原因となった感情を推測させるという手法ですね。
具体的にみていきましょう。「うれしかった」と書く代わりに「思わず顔がほころびました」と表現すれば伝わりますよね。「母の声がはずんでいました」と書けば、お母さんが喜んでいることがわかります。小学生には使いこなせない表現だと思いませんか?
また小説・物語の読解においても、「間接描写」は重要になります。登場人物の表情や態度から直接的には表現されていない心情を読み取るという場合です。特に「記述問題」で「心情を説明しなさい」とあった場合には注意が必要です。
例えば登場人物が「飛びあがった」「頭をかいた」「ピースサインをした」といった態度を示している場合、どれも心情としては「うれしい」という言葉で表現できるでしょう。しかし「うれしい」と書くだけでは足りないことは明らかです。記述して「説明」しなくてはならないのは、その「うれしさの違い」であるということができます。模範解答を示せば、それぞれが「全身で喜びを感じるうれしさ」「照れた気持ちも入ったうれしさ」「得意な気持ちからくるうれしさ」になります。さらにはそれぞれを熟語で表現するとどうでしょう?「歓喜」「恐縮」「会心」になります。これは東大入試で求められるレベルですね。国語って奥が深いでしょ!ぜひ楽しんで学習しましょうね。
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「プレゼンテーション」
「先生、プレゼンをしなくてはならないのですが、どうしたらいいでしょうか?」中学生の教え子から「プレゼン」という言葉が飛び出しましたよ。でもこの「お願い」は、はじめて聞いたものではありませんでした。かつての教え子が社会人になってからも「先生、お願いします!」といって助けを求めてくるケースはよくあるのです。大手企業に就職が決まった教え子からは「新入社員を代表してスピーチをすることになってしまいました!何かインパクトのあるスピーチを一緒に考えてください!」と懇願されたり、教職に就いた教え子からは「生徒に減価償却について授業をしなくてはならないのですが、何か分かりやすい説明の仕方はないでしょうか?」とアドバイスを求められたり、近所に住んでいる教え子からは「庭木が道路にはみ出ていて通行のじゃまになっている家があるんですけど、先生から切るように言ってくれませんか?」と陳情を受けたりと、その内容は様々ですが。それでも先生と呼んでくれる教え子からの頼みには、なんとしても応えたい!と思うのが「教師心」というものなのです。ひと昔前は「突然お邪魔してすみません!」と、私のところにお願いの訪問をしてきて驚かせる教え子がいたものですが、最近はもっぱら「突然のメールですみません!」と連絡がきますね。そんな「社会人になった教え子からのお願い」のなかで、よくあるケースなのがこの「プレゼンをどうしたらいいでしょうか?」というものなのです。
「プレゼン」は「プレゼンテーション(presentation)」の略語になります。英語では「表現」「紹介」といった意味になります。ビジネスのシーンでは、新しい企画などを立ち上げる際、周りを納得させ受け入れてもらわなければプロジェクトとしてスタートすることができません。そのために情報を提示して理解を得ようとするのですが、「情報の提示の仕方」によって、相手の理解度すなわち共感度に大きな差が出てしまうのです。ですから、どのようにして「紹介」すればいいのか、どんな「表現」を使えばうまく伝わるのかと、効果的な提示の仕方を工夫しなくてはならないのです。これが「プレゼン」の意味になります。
社会人の教え子から「プレゼンを一緒に考えてくださいよ!」というお願いは、これまでにもあったのです。それはビジネスマンとしてのノウハウを求めてというよりも、「どうすれば生徒の理解が深まるか?」を常に考えて授業をしている先生として、何かうまくうったえる方法をアドバイスしてくれませんか?というものだったと思います。
さて中学生からの「プレゼン」についての相談です。学校の授業で「外国の方に日本食について紹介する」という内容で発表を行うのだそうです。最近では学校教育にもこの「プレゼン」を導入するケースが増えてきています。「話す力」を身につけることを重視しているのですね。人前で堂々と話すことができるようになれば、自分に自信を持つことができます。諸外国に比べて「自己肯定感」が低いという調査結果もある日本の生徒に、世界でも求められるライフスキルとしてこの「人前で話せる度胸」を身につけてもらおうという意図です。語学力にくわえてプレゼン力の養成が、グローバル社会での活躍が期待される生徒たちに必須であるという考えに基づいています。
確かに人前で話をするというのは緊張します。私も仕事として「スピーチ」をする機会は多いのですが、今でも「自信を持って堂々と」できているかといえば、はなはだ心もとないですよ。けれども、そうできるように前もってしっかりと準備をすることを心がけています。その準備段階で「話す内容の下調べ」や「話の展開の組み立て」を、自分が納得のできるまで続けるのです。「これで大丈夫!」と思えるまでやりきることが重要です。この点をおろそかにすると、本当に自信を持って臨むことができずに、堂々とは振舞えなくなってしまうのです。
教え子の中学生にも「アウトプットを気にするよりも、先ずはインプットを重視したほうがいいよ」と伝えました。「どうやって発言するか(アウトプット)」を気にかける前に、「どんな情報を頭に入れるか(インプット)」を大切にしてほしいと思います。「日本食について外国の方に説明するなら、外国人による日本食の紹介を参考にしてみれば」とアドバイスしました。皆さんにも紹介しますね。フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『月の裏側』という本です。日本文化論になりますよ。「日本料理の説明」として次のような文章が出てきます。「日本料理はほとんど脂肪を使わず、自然の素材をそのまま盛りつけ、それをどう混ぜ合わせるかは食べる人の選択と主体性にまかされています。これほど中華料理から遠く隔たっているものはありません。」なるほど!と思わせるものがありますよね。レヴィ=ストロースの大好物は「のりとごはん」だったといったエピソードも紹介されていますよ。中学生の皆さんには、先ずはインプット重視でお願いします。ぜひ様々な情報を頭に詰め込んでほしいと思います!
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「ペンディング」
「先生、電子書籍がどんどん増えて、紙の出版物はなくなるという話ですが…」と、生徒が話し始めたので「ちょっと待って」と、さえぎりました。「どこで聞いた話なの?」と確認したところ、「経年推移のグラフで、増えている様子(電子書籍)と減っている様子(紙の出版物)を見たことがあります」との返事。「では2020年の紙の出版物の状況は確認した?ほとんど減っていないよ(前年比1%減)。外出を控える生活で、本の役割が見直されたという話もあるよ。」と伝えると、生徒は驚いていました。
グラフを見る際には注意が必要になります。棒グラフの高さがだんだんと減っている、という様子が示されているならば、それは「このまま減り続ける」という予想を促しているということですからね。「どの部分を強調しているのか?」そもそも「何のためにグラフが作成されているのか?」という観点を決してスキップしないようにしてください。
また、こんな表現を聞くと皆さんはどう受けとめますか?「たっぷりレタス1個分の食物繊維」というものと、「わずからっきょう1個分の食物繊維」というものです。前者は「多い」という含意のある表現ですよね。そして後者は「少ない」という含意のある表現になります。ですがどちらも同程度の食物繊維の量が含まれているという事実は、調べて確認してみなければわからない話ですよね。
このように、グラフによる表示やレトリックの使用には、必ず「意図」がはたらいているということを忘れないでください。見せられたことや、聞かされたことの、受け取った印象のままでいるのではなく、「ちょっと待てよ?」と立ち止まって考えてみることが重要なのです。これを「習慣」に、ぜひしてくださいね。
小学生ならば「今、考え中です!」と気軽に言えたのでしょうが、中学生の皆さんが返答を求められて「考え中」とはさすがに恥ずかしくて言いにくいですよね。そんな時には「その件についてはペンディングで」と応えてみましょう。
「ペンディング」というのは英語で「pending」です。動詞「pend」が「ぶら下がる」という意味で、その現在進行形になります。ですから「ぶら下がっている」という状態を表しており、そこから転じて「宙吊りの」「未決定の」という意味になるのです。英語では裁判で「審理中の」という意味でもよく使われます。「その場で判断や決断、処理などをしないこと」というのが、意味を持つこともあるのですよ。「じっくり考え中です」という意味での「ペンディング」を使いこなせるようになりましょう!
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「予定変更」
8月に入り夏休みの期間も半ばを過ぎました。さて皆さん!「夏休み中は頑張るぞ」と、7月に立てた計画通りに学習を進めることができたでしょうか。「朝は6時に起床して、すぐに勉強開始!8時に朝ごはん。食べ終わり次第、勉強を再開!お昼ごはんの12時までは集中して取り組む!」などと、無謀なスケジュールを組んでいませんでしたか?そこまで極端ではないにしても「あれも、これも」とやりたいことを詰め込みすぎると、それを消化するための時間を確保しようと「空想的な時間割」が出来上がってしまうものなのです。気持ちはよくわかりますが、人間のやることですから生物学的に「休憩」は当然必要ですし、そもそも時間をかけたとしても「消化不良」をおこしては元も子もありませんからね。「計画倒れ」に終わってしまうとしたら、「予定を変更すること」をおそれてはいけません。
ビジネスの世界では、「予定変更」のことを「リスケ」と言ったりします。英語の「リスケジュール(reschedule)」という言葉が元になっていて、その略語として「リスケ」が使われているのです。複数の部署をまたいで合同で仕事が進められている場合など、それぞれの部署が目的達成のために予定を立てていても、現実的にはうまくかみ合わず、都合よく進まないケースも出てきます。そんな折には、あらためて予定を調整した上で、計画を組み直す必要に迫られます。そこに「スケジュール通りいかなかったから失敗だ!」という判断はありません。一つのスケジュールは、あくまでも目標に向けた道筋の一つに過ぎず、最終的なゴールに向けてベストな選択を考察し続ける姿勢が求められるのです。
これを「夏休みの学習計画」を立てる中学生に置き換えてみましょう。英語には英語の学習予定が、数学には数学の学習予定があります。各科目には「達成したい目標」があるでしょう。そのために「英語にはできれば1日5時間かけたい」「数学にも1日4時間は必要だ」「国語に回す時間も3時間は確保したい」「理科と社会も1時間ずつは欲しい」と、それぞれの課題に応じた時間配分が求められます。合計すればおわかりのように「1日14時間勉強する予定」を立てることになります。そうすると「部活が終わって帰宅してから、休まずに6時間勉強する」などといった、無茶なスケジュールを組まざるをえなくなってしまうのです。
「無理をしないように」と注意を呼びかけるところなのでしょうが、私はこうした強引なスケジューリングを「中学生らしくてよい!」と評価したいとも思っています。自分が勉強するのに、誰に遠慮することもありませんからね。「やめておけ」と言われたり、逆に「やれるものなら、やってみろ」と言われたとしても、それは「外野」の声だと思いましょう。本当に「自分でやってみる」という行動を起すことが、何よりも重要になります。その結果、身にしみてわかることがあるものなのです。この経験こそが「宝」だといえます。無難な計画を立てて乗り切るよりも、今後の成績アップにつながる可能性は十分にありますよ。注意すべきは、予定していた通りにできなかったからといって、そこでくじけないことです。「予定変更」してでも、掲げた目標は手放さないのです。その際、経験者としてアドバイスできるのは「勉強時間の多さで、成績アップが決まるわけではない!」ということです。心配はいりません、量よりも質なのです。実際にやってみて初めて気づけるのが「今の自分に何ができて、何ができないのか」という現実的なラインです。それに基づいて、自分に必要な項目の優先順位をつけましょう。「リスケ」はこの優先順位に従って行うのです。勉強の「質」が格段に高まりますよ!
それでは私から、学習計画を立てる際の具体的なアドバイスを一つ。「何を勉強する」という予定から考えてスケジュールを埋めていくのではなくて、先ずは「勉強以外」の予定をカレンダーに記すことがポイントになります。部活の予定や習い事の予定などを書き込みましょう。すると「まとまって時間が取れる」日付のリストが見えてきます。そこに「何を勉強する」という予定を組み込んでいくのですが、必ず「予備日」を設けておきましょう。予定通り学習が進めば「何も勉強をしない日」が登場するように設定しておくのです。「遊び」を目指して勉強を進めるというモチベーションにもなります。このことは「1日の過ごし方」にも当てはまります。毎日「予備時間」を設けておくのです。「何を勉強する」というスケジュールで埋めてしまうのではなくて、午前の終わりの1時間、午後の終わりの1時間など、区切りのいいところに「空き時間」を作っておくのです。予定通り学習が進めば「自由時間」を過ごせます。モチベーションにもなりますし、もちろん予定通り進まない場合の調整時間にも転用できます。
カレンダーには「夏休み明けのテストの予定」も書き込んでおきましょうね!「テストの日まで、あと何日」と、いい意味のプレッシャーを感じながら勉強を進められますから。
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「課題図書」
皆さんの学校にも夏休みの宿題として「課題図書」がありましたでしょうか?「休暇期間中などを利用して読むことを推奨した図書」という意味で、学校での読書指導の一環として扱われています。「これを読みなさい!」といわば強制されるわけですから、「本ぐらい好きなものを読ませてほしい」と考える生徒にとってみれば、何かと気に食わないシロモノですよね。でもぜひ「インプットを重視する」という先ほどの観点でもって、「課題図書」について考え直してみてほしいのです。
夏休みの宿題として私にも経験があります。「1000ページ以上の分厚い本を一冊読破すること」という課題が出されたのです。「どんな本でもかまわないので」という意味では「強制」されている感覚は低かったのですが、それでも「ページ数」という設定を課されていましたので。思春期の私にとっては「勘弁してほしい」というのが、その時感じた本音だったと思います。それでも「無理やりにでも読んでおいてよかった」と、後になって思い返すことが何度もありましたよ。強制的な「インプット」にも大いに意味はあるのです!
どうせ読むならば「人類の課題図書」と呼ばれるようなものを読んでみよう!と、私は考えました。そこで選んだのがロシアの文豪トルストイによる長編小説『アンナ・カレーニナ』でした。志賀直哉が「近代小説の教科書」と評している作品だと聞いたことがあったからです。夏休みの間中、家で寝転がって読んだことを覚えています。そして、後になって「メモを取りながら読めばよかった!」と後悔したこともよく覚えています。内容について、今でも記憶に残っていることといえば、主人公の女性アンナ・カレーニナが蒸気機関車に飛び込み自殺を図るシーンですね。そしてアンナの恋愛相手となるヴロンスキーという魅力的であるはずの男性の登場人物が「首は太短く」「はげ」ていると描写されていることに、当時の私は強い違和感を覚えて、「いったいどんなキャラクターなんだろう?」と、頭の中でうまくイメージが描けなかったということです。ストーリーについては全くといっていいほど忘れてしまっているのに、蒸気機関車とハゲ男の印象だけは記憶に残っているのですから不思議なものですよね。それでも確かに「インプット」されていますよ。そして鉄則として「メモを取りながら読書するべし」ということも学びましたから。役に立っています。皆さんも、だまされたと思って「課題図書」には果敢にチャレンジしてみてくださいね!
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「悪戦苦闘」
「中学生は常に何かと闘っている」というお話をしました。そのイメージは、私に今回取り上げた四字熟語を思い浮かべさせます。「悪戦苦闘」ですね。「困難な状況の中で、苦しみながら努力すること」を意味します。「悪戦」という熟語の意味は「不利な状況での厳しい戦い」になります。「苦闘」という熟語は「苦しみながらも必死に戦うこと」を意味します。もとは「強敵に死にものぐるいで戦いを挑むこと」という限定的な意味だったのですが、そこから転じて「苦しみながらも一心に努力して立ち向かう」というポジティブな意味として使われるようにもなりました。「悪い」だの「苦しい」だの、漢字からはネガティブな印象を受ける四字熟語ですが、その意味合いは前向きで、「悪戦苦闘の末に勝利を収める」というストーリーが描けますよね。
ところで、「善戦健闘」という四字熟語をご存知でしょうか?「悪」に対して「善」を、「苦」に対して「健」を、それぞれの位置で漢字を置き換えてできる四字熟語になります。漢字から受ける印象は「善い」に「健やか」ですので、よほど好印象です。熟語に分けて考えてみても「善戦」は、「力を尽くして戦ったさま」を意味しますし、「健闘」は、「持っている力を出し切って立派に戦うこと」を意味します。ところが、その戦いの結果についていえば「敗北した」というケースが多いのです。「負けはしたが善戦健闘をたたえる」という用法になってしまいます。中学生にふさわしいのは、やはり「悪戦苦闘」だと、私は思います。
自分が中学生であった頃のことを思い返してみても「悪戦苦闘」していたように思うからです。何者でもない自分に苛立ちながら、それでも、何者にでもなれると夢想しつつ、精神の激しいアップダウンを繰り返して日々を過ごしていました。「悪戦苦闘」は、困難な状況の中でも努力するという意味であることから「初めての挑戦」に対してもよく使われます。何が正解であるのかはもちろん、まず何をすべきであるのかも分からない状態で、それでも前に進まなくてはならないときに、悩みながらも何とか解決しようと奮闘すること。中学生は「人生における初めての挑戦」が目白押しという時期だと思います。だからこそ「悪戦苦闘」には意味があるのです。かけがえのない価値がある、といってもいいかもしれません。「何もしていない」状態に見えたとしても、心の中で「悩み抜いている」のです。その姿を、これから続く長い成長の中での「一場面」だと見守ることが、中学生を担当する教師の使命だと私は考えています。中学生は誰しも「価値のある苦闘をしている存在」なのだと思います!
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]]>「良かれと思って」
「勝手に片付けないで!」「いつまでも出しっぱなしにしているからでしょ!」お母様が業を煮やしてお子さんの机周りを掃除したところ、感謝されるどころか逆に怒りを買ってしまったというパターンですね。いつの時代も親子の間で繰り返されてきた争いではないでしょうか。思春期をむかえた子どもと、ついつい子ども扱いをしてしまう親との間で、起こるべくして起きた衝突だと思います。「起こるべくして」と言える理由はなんでしょうか。「自分とは何か?」というアイデンティティを考え始めた中学生が、「自分の領域」を大切にしようとするのは当然のことだと思います。そこにいわば「土足で踏み込んでくる」親に対して、反抗してしまうのも無理はないと考えられるわけです。親御さんだって思春期を経験してきているのですから、「一線を画してほしい」というお子さんの気持ちは十分理解できるはずですよね。にもかかわらず、我慢ができなくて干渉してしまう…そんな時の言い訳として登場するのが「良かれと思って」という今回取り上げた言い回しなのです。
「相手に対する親切心から、何らかの行動をおこしたさま」を意味する言い回しです。ところが、ここで取り上げた親子のバトルのように、「相手の利益にならない、または相手が利益だとは感じない行動であった」という結果になることが多いのです。相手を怒らせてしまい、「善意でやったことだから」と釈明に使われるという場合も多々あります。
さて、次のようなケースを皆さんはどう思うでしょうか?学年のまとめテストが実施されることになり、そのテスト準備をしている生徒がいました。しかし出題の範囲が広くて、何から手をつけていいのか分からないという状態だったのです。そのため先生から具体的なアドバイスを受けました。「これまで一年間で受けてきたテスト問題の見直し」という指示です。それを聞いたお母様が、準備を手伝ってくれました。お母様が生徒に差し出したのは「間違えた問題を全てコピーして並べたもの」です。いわば「自分専用の間違い直し問題集」を手作りで用意してくれたのです。これで準備OK!と、喜んでその「問題集」に取りかかるかと思いきや、生徒の受けとめ方はまるで違っていました。「何の嫌がらせで、コピーまでしてきたの!」というものだったのです。生徒にしてみれば「自分の間違い」を、わざわざ全部見せつけられたかのようで「うんざりした」というのです。お母様も、もちろん厭味のためにコピーをしてきたわけではありません。やり直しがしやすいように、手はずを整えたというだけの話です。まさに「良かれと思って」やったことなのです。ことほどさように、親子の思いは「かみ合わない」ものなのですが、長年、生徒と親御さんの双方と関わりを持ってきた私の立場からすると、それぞれに対して語りかけるべき内容が見えてきます。
まずは生徒に対して。「やらなければいけないこと」を目の当たりにして、気が滅入ったというのを、人のせいにしてはいけませんよ。落ち着きましょう。課題を目の前にして、「全部やらなくてはダメだ!」と思い込んでしまうのも、良し悪しですからね。「やった分だけ復習が確実にできる」という発想で、「小分けにして」進めていきましょう。
次にお母様に対して。何もせず手をこまねいているだけのわが子を、見るに見かねて「こうすれば解決するでしょう!」と、具体策を提示したのですよね。でもそこに「どうしてできないの!」という批判めいた気持ちはなかったでしょうか?さらには「あなたのために、ここまでエネルギーと時間を割いているのよ!」という、押し付けがましい気持ちはなかったでしょうか?言い過ぎているかもしれませんが、お母様が「こうあるべき」だと思い描いているお子さんの姿と、違っているからといって腹を立ててはいけませんよ。
生徒の皆さんは「勝手な押し付けはやめてほしい!」という思いが強いでしょうが、親御さんの思いの根本は「子どもにとって良かれ」という気持ちだということは、わかってほしいと思います。その思いまでは否定しないであげてくださいね。改善すべき行動はどんどん指摘してください。そして親御さんは、お子さんは「何もしていない」のではなくて「どうすればいいのか考えていた」のだと理解してあげてください。中学生は常に何かと闘っているのです(笑)。復習の仕方、一つとってみても、「初めて遭遇する困難な課題」と向き合っていると考えてあげてくださいね。どうやって解決すればいいのか?思い悩み、その答えを「自分で発見」してこそ、成長していくものなのですから。
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]]>「文章体験」
「先生、聞いてください!ウチの子が国語を勉強したがらないので困っています。」教え子君のお母様からの相談です。「国語を」と限定しておっしゃっていますので、勉強そのものを「したがらない」問題児というワケではないようです(笑)。お母様の目から見ても、勉強に偏りがあるのではないか?と心配になる様子です。数学や英語には取り組むのに、国語に手をつけないのはどうしてなのか?という疑問かと思います。次のように答えてみました。例えば、数学なら「二次関数」、英語なら「間接疑問文」といったように、新しく学習する単元が次々と登場しますよね。予習も復習も欠かせません。それに対して国語には、「初めて学習する内容」にあたる単元が「見当たらない」と高をくくることができます。例えば、「小説を読む」という単元が登場してきても、数学や英語と違って新しい公式や文法を習うことはありません。日本語で書かれているので、「読む」といわれて「読めない」という事態に陥ることもないでしょう。ですから勉強の優先順位からすると、国語は後回しになってしまう傾向がありますね。お子さんだけの問題ではないと思いますよ。
「でも先生、読解問題を解くことは大事ですよね。面倒くさがるというか、とにかく問題をやりたがらないのは、どうにかならないでしょうか?」これにも理由はあるのですよお母様、と次のように答えてみました。国語の読解問題を「面倒だ!」と感じてしまうのは、「次の文章を読んで後の問いに答えなさい」という出題形式そのものに起因します。まずは、自分が読みたいと思って選んだわけでもないものを「次の文章を読んで」と強要されるということです。これがもう「その気にならない」原因の一つなのです。さらには設問にも「気分を逆なでする」要素があります。「傍線部について…」「空欄にあてはまる…」などの指示があることです。文章に勝手に線が引かれ、空欄が設けられ、読む方からすると「邪魔をされている」という印象を持ちます。テストならば「しかたがない」と割り切ることができても、読解演習の際には「こんな文章読みたくない」「こんなところに傍線引かれても興味ない」と言ってみたりするものなのですよ、思春期の生徒は。そして、あまり無理強いをすると悪影響がでます。「とにかく解けばいい」という態度になり「早く終わらせよう!」としてしまうのです。熟慮を避け、無意識のうちに思考回路をフリーズさせてしまい、ただ文章を目で追うだけ…、問い一からとにかく順番に文字を埋めていくだけ…ということになりかねませんから。
「でも先生、文章を読むことから逃げようとするのは、やはり問題だと思うのですが。そんなことで、これから大丈夫なのでしょうか?」そもそもの話になりましたね。「文章体験」(文章を読むという経験)が少ないのは、今後の成長にとって阻害要因になるのではないかという心配です。次のように答えてみました。文章を読むという行為は、突き詰めれば「他人の声に耳を傾ける」ということになります。その際に、情報を受け取るというだけではなく、自分の中に生じる感情や感覚を味わうことまで含めた行為が「文章体験」なのだと思います。体験後に「何を読んだのか?」と、思い返してみればわかるのですが、それは「文章」を覚えているのではなく「その時感じたこと」を記憶しているものなのです。例えば小説を読んだ後、頭の中で再現される記憶が「映像」であるということも多いでしょう。文章体験は、視覚や聴覚といった五感についても存分に活用されているのです。これは考えてみると、大変なエネルギーが必要な作業だとわかるでしょう。いわば「見知らぬ世界で、見知らぬ人と出会う」という経験に等しいといえます。そこでお母様に思い出してほしいのが、中学生にとっては日々の生活の方が「新しい出会い」の連続であるということです。「人生で初めての経験」を自分の中で処理するために、毎日、毎日、エネルギーを使い果たしているようなものなのです。文章体験を味わう「そんな余裕はない」と考えてあげた方がいいのかもしれません。「今を生きる」リアルな経験こそが、今後の文章体験を豊かにすることになるはずだと長い目で見てあげてくださいませ。
「先生、中学生にやさしすぎませんか?読解問題を解くことを習慣にしなさい!というくらいおっしゃってください!」お母様、容赦なく厳しいですね。ではアドバイスを一つ。読解問題を解くタイミングについてです。ある意味で波乱万丈の毎日を過ごしている中学生にとっては、一日の終わり近くに「文章体験」をあらためて付け加えるのは、容量オーバーになりかねません。ですからおすすめは、朝に読解問題を解くことになります。全国に広がった「朝の読書運動」はご存知ですよね。好きな本を10分でも読もうという活動です。そこから始めてもいいでしょう。徐々に、朝の時間に読解問題を解くということにチャレンジすれば、無理をせずに続けられると思いますよ。
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「熟読玩味」
「記述するためには、文章をしっかりと理解しなくてはならないということですね」。前回のブログの記事を読んで、教え子くんが発言してくれました。その通りです!どうすれば記述できるか?ということよりも先に、何を記述しなくてはならないのか、その内容の理解がなくては始まらないということです。「次の文章」をていねいに読み込み、どこに何が書いてあるのかをきっちりと把握すれば、「書くべきこと」が浮かび上がってきます。そのためには、脳裏に焼き付けるように、文章を読まなくてはなりません。
「熟読玩味」というぴったりの四字熟語があります。「じゅくどくがんみ」と読みますよ。「熟読」は、文章を繰り返し読んで意味を十分に考えることですよね。「玩味」は、食べ物をしっかりと味わいながら食べること。よく噛みしめて味わうこと、というのが本来の意味です。ここから転じて、文章を深く読み取って理解すること、ということも意味するのです。「熟読玩味」は故事成語でもあり出典があります。中国の古典『小学』に登場します。南宋の時代に編纂された書物で、古人の教えを伝えて理想的な人間を養成しようというのが編纂の意図になります。その中で「熟読玩味」するべきものとして『論語』『孟子』が取り上げられているのです。
「テスト中に読解の文章を熟読玩味する時間はないと思います」。そうですね。時間の限られている中で「じっくり味わいながら」文章を読むなんてことは、できそうもありません。身につけてほしいのは「味わう」という言葉に端的に表現されている態度なのです。同じく「食べる」ということに関わる言葉で、言い換えてみるとイメージしやすいかもしれません。それは「咀嚼」をして「腑に落ちる」ということになります。「咀嚼」は「噛み砕くこと」、「腑に落ちる」は「内臓にしみわたる」というのが字義通りの意味ですが、「咀嚼」は「言葉の意味をよく整理して理解すること」、「腑に落ちる」は「納得する」という意味にもなるのです。「納得できるまで、言葉の意味をよく整理する」というのが、読解の際に求められる態度になります。
テスト中にはできませんが、問題集などに取り組む際に、この「熟読玩味」の態度で文章を読み込んでみてください。どのくらい「読み込む」のかと言いますと、「この文章に何が書いてあったのか」を人に説明できるくらい、になります。自分がきちんと理解できていなければ、人に説明することはできませんからね。何が書いてあったのか、頭の中にしっかりと入力をして、さらにはそれが適切に出力される。こうなれば「記述すべきこと」が何であるのかということで、頭を悩ませることはなくなります。ぜひ、読解の文章を読んだら、その内容を人に説明してみてください。相手はいなくてもかまいませんよ。カメラの向こうの相手を想定して語りかけるユーチューバーのように、説明するのです。ぜひ実践してみてください!
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「筆が立つ」
まとまった休みの前には「気になる課題」について、この期間に何とか解決したい!という様々な相談を、生徒たちから受けることになります。そんな中、国語の学習やテスト対策について、最も多い相談というのが「どうすれば記述問題ができるようになりますか?」というものです。解答用紙を前にして「う〜ん」とうなっているだけで筆が全く進まない…という状況は避けたいですよね。その反動ともいえるのでしょうが、生徒のイメージの中では「記述が得意」というと、すらすらと自由自在に答案を完成させられるというのが理想として思い描かれているようです。しかしながら、何も「筆が立つ」必要はないということを理解することから、記述問題への対処は始まるのだ!というと皆さんは不思議に思うでしょうか。
「筆が立つ」というのは「巧みな文章を書くこと」を意味する慣用句です。ところが「字が上手なこと」だという意味で理解している生徒が少なからずいるので注意が必要ですよ。「とても巧みに文字を書く」という意味の言葉は「達筆」になります。「たっぴつ」と読みますからね。「筆」を扱うのが「達者(たっしゃ)」であるという熟語ですよ。これにも注意が必要で、「巧みな文字」がイコール「字がうまい」ということでもないのです。「すらすらと流れるように文字を書く」というのは「一見すると読めないような崩した文字を書く」ということですので、達筆だと言われる人ほど、普通には読みにくい文字を書くということでもあるのです。ですから「達筆ですね!」という言葉は、ほめ言葉にもなれば「何を書いているか読めませんよ!」という意味での皮肉にもなるということを覚えておきましょう。
慣用句の「筆が立つ」の説明に戻ります。「筆を折る」(文筆生活をやめる)や「筆を入れる」(文章を添削する)などのように、「筆」=「文章を書くこと」を意味する慣用句は多いのです。では「立つ」というのはどういった意味なのでしょうか?「立つ」には「筆」以上にたくさんの慣用句があることに驚きますよ。たとえば「腕が立つ」「弁が立つ」「角が立つ」「顔が立つ」「めどが立つ」「波風が立つ」「白羽の矢が立つ」などなど。「筆が立つ」は「腕が立つ」(技術が優れている)や「弁が立つ」(話し方がうまい)と同じように「技能などが一段と優れている」という意味の「立つ」に属することになります。他にも「現象や状態が出現する」という意味や「ものごとが成り立つ」という意味にもなりますので、確認してみてくださいね。
さて記述答案作成への心構えです。とかく「記述力」というと、「上手に文章を書く力(筆が立つこと)」と考えてしまうようですが、違うのです。「記述問題ができない!」と嘆いている生徒の多くが、こんなふうに記述問題をイメージしています。「真っ白な画用紙を前にして、何を描いたらいいのか分からなくて悩んでいる」というものです。「絵がうまければスラスラと描けるのに」というのと同じ発想で「文章がうまければ」と考えてしまうのですが、違うのです。何をどのように描く(書く)のかは、全て提示されているのですから。国語のテスト問題には必ず「次の文章を読んで後の問いに答えなさい」とありますよね。ここで求められているのは「文章を正確に読んだ」という報告なのです。決して「文章を創作する」ことではありません。ノンフィクションのレポートこそが記述答案に求められる姿勢なのです。文章に書かれている内容を客観的に分析して、要点を抽出することが何よりも重要になります。この「コア」の部分こそ、記述答案に必ず書かなくてはならないことになるのです。それは「文章をちゃんと読んで見つけましたよ」という報告に等しいのです。ですから、記述答案の作成には余計なことを「けずる」という作業が重要になります。何かを付け加えてしまっては「フィクション」になってしまいますから。いかに上手な文章で表現したとしても、「次の文章」と関係がなければ「0点」なのです。
「達意」という言葉があります。「自分の考えが十分に相手に理解されるように表現すること」と意味します。「達意の文章」こそ記述表現の極意だと言われることもあります。その通りなのですが、ここで注意しなくてはならないのが「自分の考え」というポイントです。記述答案における「自分の考え」とは「次の文章にこめられた意味を自分で理解した内容」になるということです。そして「相手」とは「答案の採点者」になります。採点者に意味が良く伝わるように構成し直すことが、記述の目的なのです!
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「罪を憎んで人を憎まず」
「先生!この答案で、どうして点数がもらえないのでしょうか?」。教え子君からの相談です。模擬テストの記述問題で失敗したのだといいます。塾でも最上位クラスに所属する生徒です。普段から自信を持って学習を進めている様子は頼もしい限りなのですが、思い込みが激しいところもあって時々「やらかして」しまうことがあります。でも、そうした時こそが本当の学力を身につけるチャンスなのです。失敗したということは、確実に学ぶべきことが存在するというサインなのですからね。皆さんも、ぜひ発想を転換してみて下さい。「テストで失敗したら、これはチャンスなんだ!」と。
さて相談内容です。物語文の読解になります。登場人物の行動理由を記述して説明するという問題です。「なぜ彼女は傍線部のような態度を示したのか、その理由を説明しなさい」といった形式ですよね。「答案は思うように仕上げられたのに…」と教え子君。それでも返却されたテストには「×」がつけられており、期待した点数どころか0点という記述の評価だったのです。「部分点もなしで、×というのが納得できません」。せっかく書いたのに0点が返ってくれば、そう思いますよね。でも×ということは「全否定」されてしまったわけです。何か致命的な失敗をしたのではないか?と反省してみなくてはなりませんよ。そして納得のできるまで原因を追究することが最も大切になります。もし自分で解決できないような場合は、必ず先生に相談をしてみることです。チャンスを逃してはいけまぜん。
答案を見せてもらって了解しました。「ずいぶんと腹を立てているようだね…君が。」教え子君に話しました。答案の端々から「傍線部の彼女の態度」が許せないという気持ちが伝わってくるようです(笑)。あまつさえ「この女は」と、答案に書いてしまっています。感情的になってはいけませんよ。求められているのは「あなたの感想」ではないのですから。
物語の中で登場人物がとる態度や行動の中には、人の感情を逆なでするようなものや、場合によっては不愉快にさせるようなものまで、様々な要素が組み込まれています。なぜならば、それが登場人物すなわちキャラクターの役割でもあるからです。読者の心情を揺さぶりたくてキャラクターを設定しているわけですからね。物語の作者にとっては、腹を立てている教え子君というのは、望みどおりの読み手であったといえるでしょう。しかしながら、国語の読解問題の作者(作問者)は物語の作者とは違います。物語の中の出来事を題材として、テストという「客観的な評価基準」を作成しているわけですから。先入観(思い込み)や主観(個人の感想)を排して、登場人物の行動を判断しなくてはなりません。あくまでも、分析の対象となる客観的な判断材料として、登場人物の行動は扱われなければならないのです。「好き・嫌い」が入り込む余地はありませんよ。読み手は、登場人物の行動そのものと向き合うことが必須になります。客観的な事実は何であるのか?という観点です。そこで教え子君に伝えたのが、今回の言い回しである「罪を憎んで人を憎まず」になるのです。
この言い回しの出典は中国の古典『孔叢子』(くぞうし・こうそうし)であるとされています。孔子の言葉として伝えられているものですね。「昔の裁判官は、罪を犯したことについては悪いことと認めたが、その人物自体を悪とすることはしなかった」というのです。ここから孔子の教えとして「人が犯した罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人を憎んではいけない」という内容が示されています。
国語の読解に求められるのは、この「裁判官」の態度なのです。登場人物の行動を客観的に判断することは必要です。しかし、登場人物そのものを批判したり逆に賞賛したりするといった「人物評価」を行うべきではない、ということなのです。教え子君は気づきました。「あまりに気に食わない態度だったので、わざと『この女』という表記にしたことも、自分勝手な評価にあたるということですね。」その通りです。そうした主観的な判断には「×」がつけられることを、身をもって学ぶことができましたね。大きな成果といえますよ!
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「先読み(look ahead)」
「先生もクイズは得意なんですよね?」と、教え子たちから突然聞かれることが増えました。最初は「先生も」というのが、どういう意味でたずねているのかが分からなかったのですが、教え子だけでなく「各方面」からも同様の趣旨の質問をされるようになったので、「何を確認したいのか?」という質問者の意図は分かりましたよ。「東大生はクイズが得意である」ということを前提として、教え子たちは「先生も」と聞いてくるのですね。そして「なぜ得意であるのか、その理由を教えてほしい」という質問であったり、逆に「東大で身につける能力が、クイズでいいのでしょうか?」といった質問まで、各方面から飛んでくるというのが最近の状況なのでした。
テレビに東大生がたくさん登場しています。その多くが「クイズ番組」であることから、「クイズに強い東大生」のイメージができあがったのでしょうね。教え子の中にもそうした東大生に憧れている生徒がいて、「東大を目指したい!」というモチベーションにもなっているとのこと。「顔の見える」身近な存在として東大生を意識できるというのは、東大受験にとってプラスに作用するでしょうから、テレビの効果は大きいと思いますよ。特に、東大と接点がなかったような地方在住の生徒にとっては、自分の進路選択の一つに考えるようになっただけでも意味があります。これだけテレビで毎週「東大!東大!」と叫ばれているというのも、今までになかったことですからね。全国の受験生が一念発起して東大に集結するのではないか?と、期待もしています。
「東大に合格するなんて子どもの頃から天才だったんでしょう?」と、質問される(からかわれる?)こともあります。もちろんここでいう「天才」とは、「非常に優秀」というくらいの意味でしかなくて、「子どもの頃から勉強がすごくよくできたんでしょう?」という質問と変わるところはありません。それなら「秀才」という表現でもよさそうなものですが、「秀才を超える」という意味で「天才」という表現を使ってくれているのです。「ちょっとやそっとの秀才ではない」というニュアンスをこめて質問して(からかって?)くれているのですね。
でも、「誰も考えつかないこと」を創造するのが天才だとするならば、東大合格生というのは、そうした「何もないところから、新しいものを生み出してくる」という方向性とは正反対のタイプだと思うのですよ。正反対というのは文字通りで、「目の前にあるものを、誰にでも分かるように解説する」というのがその真骨頂になります。「何もない」ではなく「目の前にある」という点、「生み出す」ではなく「説明する」という点、「正反対」というポイントはここになります。
これは文明開化の時期に東京大学が設立されて以来の重要な役割だと私は考えています。西洋から日本ではまだ誰も見たことも聞いたこともないような新しい考え方や技術が伝えられました。それを「これは要するにこういうことだ」と説明して、皆が「へー、そういうことだったのか!」と理解できるようにすること。このうまく説明する能力こそ、東大に期待され、また東大生が発揮すべき力であると考えるのですよ。
「Aというのは要するにBということだ」という用法では、Aを説明するために、Bという内容によって、相手を納得させなくてはなりません。「なるほどぴったりと当たる」と相手に思わせなくてはならないのです。そのためには「それはどういうことですか?」という質問を「先読み」して、そうした疑問が出ないように表現を練り直し、簡潔でしかも状況を説明するのに最も適切だと思われる表現を選び取らなくてはなりません。
さて、今月の表題に掲げた「先読み」が登場しました。英語では「ルックアヘッド(look ahead)」といって「前方を見る」ことから「未来のことを考える」「将来に備える」という意味になります。プログラミングの用語でもあり、「未処理の入力の一部を先に参照し、現在の処理での判断に利用すること」を意味します。後から起こるであろう事を予測して対処するのですね。ビデオゲームでも、敵の動きを予測して攻撃を回避することを先読みといったりします。「相手がこうくるだろう」と想定しておくのですね。
クイズに「先読み」が有効なのは、「早押し問題」のシーンから明らかでしょう。問題の途中でボタンを押して解答するというアレですね。東大生がこれを得意としているのは、何もボタンを押すスピードが速いからではありません。出題の意図を理解して、問題の傾向を読み取り、いち早く正解にたどり着いているのです。これができるのは「自分でクイズを作ること」を習慣にしているからなのです。出題の意図に敏感になるには、出題者の気持ちが分かるようにならなくてはいけません。そのためには自分が出題者になってみることが手っ取り早い方法なのです。また、身につけた知識を(インプット)、問題にして他の人に問いかける(アウトプット)ことは、記憶の定着にも絶大な効果を発揮します。人間の脳がアウトプットを重要視していることは脳科学の研究が示していますよ。勉強して覚えた内容をどんどんクイズにして周りに出題してみましょう!例えば「『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり』ではじまり、日本で初めてのかな文字を使った文学と言われる平安時代の作品といえば?」といった具合に。紀貫之の『土佐日記』ですよね。これが「男もすなる…」のタイミングで、『土佐日記』!と答えられるようになるわけです。
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「タスクフォース」
大人気ドラマで注目を集めた言葉ですね。破綻寸前の企業に、バンカー(銀行員)である主人公が乗り込んで再建に奔走していたところ、国土交通大臣自らが設置した再生検討チーム「タスクフォース」が強引に債権放棄を要求してきて、国家権力とするどく対立するというストーリーは、ハラハラしましたよね。この「タスクフォース(task force)」という言葉、もともとは軍事用語です。特定の任務(タスク:task)を遂行するために編成された部隊(フォース:force)という意味であり、「機動部隊」とも訳されています。不測の事態に見舞われた場面で、各部隊から優れた兵力を臨時で招集し、迅速に作戦を実行するというのがその目的となります。ここから転じて、軍隊以外でも企業や官公庁などの組織において、特定の目的を果たすために一時的に編成される部署やグループのことを「タスクフォース」と呼ぶようになったのです。緊急性の高い重要な課題に取り組むために設置される特別チームという意味合いで、組織内の各部署から適任者を抜擢(ばってき)し、短期集中的に課題解決にあたることになります。
特別なチームであるタスクフォースを立ち上げ、その機能を十全に発揮させるためには、準備が不可欠となります。その際に重要となるポイントがあります。それは「目標」を掲げることです。急遽(きゅうきょ)編成されたチームですので、何のために集められ、何をしなくてはいけないのか、「目標」を明確にした上で共有しなくてはなりません。そして次に、目標を達成するための「計画」を練り上げることです。設定したゴールに向かうその道筋についても共有しなくてはならないのです。緊急の問題解決には、それに応じたスキルやノウハウを持っている人材が集められます。それぞれが適材適所で協力して任務を遂行していくには「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どうする」のかをマネジメントする計画がなければ立ち行きません。そうしてスタートしたチームにとって、最後に重要となるのが「実行」することなのです。決められた期限までに何が何でもやり遂げる、という意志がなければ絵に描いた餅に終わってしまいますから。
ドラマの中に登場した政府のタスクフォースは「敵役(かたきやく)」でしたが、現在、永田町・霞ヶ関にあるリアルな日本政府にはどのようなタスクフォースが存在しているのでしょうか?時事問題でも取り上げられる可能性がありますので、事例を一つ紹介してみたいと思います。今年は新型コロナウイルスによるパンデミックの発生で予想もしなかった状況に陥りましたが、「新しい生活様式」という言葉とともに、あらゆる場面での変化が求められる事態になりました。教育の世界も一気に変革の時代に突入したと言えます。もともと2020年は新しい学習指導要領がスタートするタイミングでもあり、大きな転換期の年度として注目されていたのです。そこに新型コロナウイルスの感染拡大が重なり、緊急時にも学習を継続させるオンライン学習を始めとした「教育でのICT活用」を求める声が大きくなったのは記憶に新しいところでしょう。旧態依然の学校教育システムの限界が露呈して根本的に見直す機会にもなったと言えます。「教育のデジタル化」についての提言なら、これまでにも何度もあったのです。「子供たち1人1人に個別最適化され、創造性を育くむ教育ICT環境を整える」ことなど、閣議決定までされています。それでも具体化されずに来たことが今回の事態を招いてしまったのです。
ついに政府は「デジタル化タスクフォース」を設置することを決めました。菅首相が教育分野におけるデジタル化について指示したのです。具体的な検討項目として、?学習履歴(スタディ・ログ)等の利活用 ?教育ビッグデータの効果的な分析・利活用の推進 ?ICT活用の抜本的拡充に対応した情報通信基盤の在り方 ?デジタル技術による教育手法や学務の高度化・効率化 ?デジタル化の担い手となる人材の育成、といった五つを掲げて取り組みをスタートさせます。いよいよ政府が本気で動き出しますよ!
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「一攫千金」
「先生!ウチの子、今回のテストの成績が、まったく振るわなくて…。勉強法を変えたほうがよいのでしょうか!」毎月!恒例?となっているような、駆け込み寺への親御さんからのうったえです。毎回(お相手は違いますが)お伝えしていることは、「学問に王道なし」というごくごく当たり前のお話になります。
紀元前300年ころ、エジプト王が数学を勉強していました。個人授業を担当していたのは、かのユークリッドです。ユークリッド幾何学を体系づけた数学者ですよ。そんなぜいたくな家庭教師に、エジプト王は「苦労しないで幾何学を学ぶいい方法はないのか?」とたずねたのです。その際の返事がThere is no royal road to geometry.「幾何学(学問)に王道なし」です。たとえ王様であっても、地道に勉強しなければ幾何学はできるようにはなりませんよ、とたしなめた言葉です。「王道」はroyal roadの直訳ですが、意味合いを考えると「近道」や「楽な方法」というほうが伝わりますよね。「王道」というのは、王様専用の特別な近道という意味でもあるのです。
この話はあまり親御さんには通じません(笑)。「それはそうかもしれませんが、でも何とかうまいやり方で、劇的に成績を上げる方法があるのではないでしょうか。隠さないで教えてください!」と、ここまで露骨に迫ってくることはまれですが親御さんの気持ちはよくわかります。何かしてやれることがあるのではないか?できることは何でもしてやりたい、と願うのが親というものなのです。それでも、「スイッチ一つで、劇的な変化!」といったことを望むのは、一攫千金を目指すのとレベルがかわりませんよと、親御さんをたしなめます。学問はギャンブルではありませんからと、ここまで言うとさすがに「ぎょっ」とされます。
「一度にたやすく大きな利益を手に入れること」を意味する四字熟語です。一獲千金と書くこともありますが、本来は誤用です。「一攫」は一つかみという意味、「千金」は大金という意味です。「ひとつかみで大金を得る」というたとえになります。
一度でたやすく目的を達成するためには偶然に頼るしかありません。たまたま勉強したところが、たまたまテストに出題された。そんな偶然性に頼っていてはいけませんよね。普段からの心がけは、なにが出題されても合格できる学力を準備することですからね。ここは親御さんの方が我慢強くならなくてはいけないのですよ。
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「第一志望」
こんな風に問いかけられることがあります。「先生は小さな頃から東大を第一志望にして、ずっと勉強を続けてきたのですか?」と。「そうですよ。皆さんも頑張りましょうね!」と、にこやかに返せばいいのでしょうが、そこは国語の教師であります私、質問に対しては傍線部を説明するかのように分析したくなってしまうのです。「小さな頃」というのが何歳くらいのことを指しているのでしょうか、それによって答えは違ってくるかと思いますが…。いやな感じですよね(笑)。でも「正確な答えを出すためには、正確に設問文を把握すること!」と、答案作成に際して口を酸っぱくして指導をしている私の立場というものをご理解くださいませ。「小さな頃」が「物心がついた頃」(幼児期を過ぎて、世の中のことがなんとなく分かり始める時期のこと)という意味なら、「いいえ」と返事をすることになります。「当たり前ですよ!そんなに幼い頃から考えるわけはないじゃないですか!」という声が聞こえてきそうですが、私の周りには「東大出身の家族・親戚に囲まれて育ったので、言葉を覚えるのと同じタイミングで、東大のイメージは頭の中にありましたね。当然行くものだと思っていましたよ」という人間が結構いたりするのですよ。でもまあ、ここでいう「小さな頃」は、「大学受験を普通に意識するようになる高校生よりも早い、小中学生の頃から」という意味で考えるのが素直な受け取り方でしょうね。それでも「いいえ」という返事になります。私の場合、東大を意識したのは高校二年生の時でしたからね。それまでは京都大学の工学部に進学して、ロボットの研究をするつもりでいましたから。さらにいえば「ずっと勉強を続けてきた」ということについても、胸を張って「はい、そうです!」とは言いがたいのです。京都大学を目指してもいたわけですから熱心に勉強する必要性は当然あったわけですが、勉強以外のことにうつつを抜かしている時間の方がはるかに多かったと言わざるをえません。それでも一つだけ「間違いありません!」と、堂々と言えるのが「第一志望だ」という点です。東大を意識し始めてからは「ここ以外ありえない!」という強い気持ちで受験勉強をしていたことは断言できます。結果的に第一志望合格を果たしたのですが、正確に言えば「私は第一志望である東大にしか合格しませんでした」ということになります。その意味は、他に受験した大学は、すべて不合格でした、ということです。私にとっては、第一志望以外に「すべりどめ」の学校を受験するという作戦は、全く機能しなかったことになります。東大の受験対策しかしてこなかったのですから当たり前の結果ですし、現在の受験指導をする私の立場からすれば、「君の考えは甘いよ!」と指導することになってしまいますね。
そんな私ですから、皆さんにアドバイスをする場合でも「早くから志望校を決めてしっかりと準備しなさい!」とは、なかなか言えません(笑)。それでも「第一志望」にこだわることの重要性については強調しておきたいと思います。でもそれは「選択と集中」という考えに基づいて、志望校を一つにしぼって全力を注ぐことが重要だ、という点を伝えるためではありません。むしろそれは結果的にそうなるという話にすぎないのです。それよりも「東大が第一志望だ!」と表明することに対する、いわば精神的なハードルを越えることの困難さについて、いかにそれを克服することが重要なのか、という点こそ伝えたいのです。
みんなの前で堂々と「東大が第一志望です!」と宣言することには勇気が必要です。実力もないのに偉そうなことを言って!と、ネガティブな言葉を投げかけられるかもしれませんからね。だったら人知れず準備をして周りも認める力が十分についたと思える時点で宣言しよう、と考えるのが人情というものです。でもそうすると、「まだ自分には早い。宣言なんてとてもできない」と、つい先送りをしてしまうものなのです。このメンタリティに打ち克ち、誰かに代わってもらうことは決してできないのだから自分でやりきるしかない!と覚悟を決め、「第一志望に合格しないと、自分が困る!」という気持ちの高ぶりを感じて、はじめて「第一志望」だと宣言できるのです。
第一志望は夢でも憧れでもありません。現実に格闘しなくてはならない相手そのものです。憧れでいいならば、妄想しているだけの方がむしろ心地いいでしょう。結果を求められることもなく、自分は決して傷つきませんから。「ここまでは自分でやった!」とアピールすることで自己満足も得られるでしょう。でもそれは現実逃避です。いざ本番を前にすると、最後までやりきらずに文句を言うだけになります。何かのせいにして「できない」と口にするのです。不満げな表情を浮かべながら「やりたくない」と言い放つのです。第一志望に縁のない人たちの特徴といえるでしょう。
今、自分がやるべきことに集中すること。この積み重ねが第一志望合格につながっていくのですよ。
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「先回り」
「自分がやるべきことに集中して最後までやり抜く」というのを習慣にすることが重要だと言いました。わかってはいるのですが難しいですよね。実行を妨げるような誘惑にあふれかえっていますから。「自分がやらずに、人にやってもらえればラッキー」「最後までやらずにすんでラッキー」と、ついつい考えてしまうのではないでしょうか。けれどもこうした、人と比較して損得で行動を決めてしまうことに慣れてしまうと、取り返しがつかなくなることがあります。それは『第一志望に縁のない人たちの習慣』なのです。
幼児教育にも関わっている私ですが、この時期の学習体験が後々に与える影響の大きさを痛感しています。幼児を抱える親御さんを対象に講演をする機会も多いのですが、その際に強調しているのが「幼児の自分で解きたい!という気持ちを大切にしてください」ということと、「決して先回りして教えてはいけませんよ!」ということなのです。
幼児が生まれてはじめて取り組む課題があったとします。課題を与えた側の大人は、当然正解を知っていますよね。すると一緒にいてフォローをする場合に、ともすると先回りして幼児を正解へと誘導することが役割だと勘違いしてしまうのです。ついつい我慢ができなくなってヒントを与えてしまいます。ところがそれは、「こうじゃないのかな?」という優しいアドバイスのつもりでも、幼児にしてみれば自分のしていることを「そうじゃないでしょ!」と否定されたと受け取ります。その結果から幼児が学ぶことは、自分で考えるよりもヒントをもらった方がよい、という教訓です。すると、どうすればヒントがもらえるか?という方向に力を注ぐようになり、「できない!」と言ってみたり「わからない」とアピールしてみたりして、答えを聞き出そうとするのです。
これが根深い体験として、成長してからの習慣に大きく影響しているのではないか?というのが私の直観なのです。「先回り」されることの不快感は皆さんも日常的な経験として理解していると思います。「今やろうと思ってたのに、言うんだものな〜」という嘆きは、「中学生あるある」ではないでしょうか。ですが、言われる前にやる!という集中力を発揮できるようになれば第一志望が見えてきます。先回りの先回りを意識しましょう!
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「地歩を固める」
「地歩」は「ちほ」と読みます。「ある人が占めている位置や役柄」という意味を表します。「地歩を固める」という言い回しによって「自分の地位や立場を確かなものにする」ということになります。今回、なぜこの言い回しを取り上げたのかといいますと、四月になって学校の新学期が始まる時期に、いつも思い出す「表現」があるからなのです。それは村上春樹さんの小説『ダンス・ダンス・ダンス』に出てきます。
「一週問が過ぎた。春が地歩を固め、確実に前進していく一週間だった。春は一度も後戻りしなかった。三月とは全然違うのだ。」
「春が自分の地位を確かなものにしていく」というニュアンスが、なんともいえず好きなのです(笑)。今年の冬から春にかけての時期は、状況が状況でしたので重苦しいものがありました。季節の変化といっても「外出自粛」の最中では、直接的に感じられるものがありませんでしたからね。そんな中でも「春が地歩を固め、確実に前進していく」ということと「春は一度も後戻りしなかった」ということは、信じることのできる確かなこととして、我われに希望を与えてくれたように思います。『ペスト』の医師の言葉を借りれば「春は誠実に、その職務を果たしてくれた」ということでしょう。後戻りはありませんからね。前進していくのです。自分にできることを誠実に手がけていきましょう。「地歩を固める」のです。
学校が休みになってしまった自宅での勉強は、不安にかられることもあるでしょう。つい「授業があったら」と考えてしまうと思います。でも、自分でできることに目を向けましょう。授業と違ってもいいのですよ。自由に自分の興味関心を広げることが許されているのですから。お勧めしたように古典にチャレンジするのもいいでしょう。弱点のある科目があれば、じっくりと鍛えなおすこともできますね。得意な科目があれば、どんどんと深く追究することもできますよ。
近代科学の創始者ともいわれるアイザック・ニュートンはご存知でしょうか。力学、数学、光学の三つの分野で打ち立てられた「三大業績」で有名です。1643年に英国で生まれたニュートンは1661年にケンブリッジ大学に入学しました。ところがその学生時代にロンドンではペストが流行し、ケンブリッジ大学も休校となったのでした。ペストを避けて1655年から1656年の間、ニュートンは実家のある故郷に戻っています。そこで過ごした18カ月はゆとりをもって思索する時間にあてられることになったのです。リンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に気づいたという有名な伝説は、このタイミングで生まれたのですよ。ニュートンの三大業績はすべてこの時期に着想されたといわれています。ニュートン自らこの期間のことを「創造的休暇」と呼んでいますからね。皆さんに与えられたこの時間を有意義に過ごしましょう!地歩を固めるような創造的休暇を過ごしてくださいね!
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「終わりよければすべてよし」
皆さんも耳にしたことのある表現ではないでしょうか。「ことわざ」のように感じるかもしれませんが出典のある言い回しになります。すなわち「作者」が存在する表現なのです。その作者とはウィリアム・シェィクスピア。「世界文学のスタンダード」ともいわれる数々の名作を生み出したことで知られている劇作家です。その作品の一つが『終わりよければすべてよし』なのです。戯曲(演劇の上演のために執筆された脚本)のタイトルとしては有名なのですが、実際に演じられる劇の方は人気がなかったらしく、シェィクスピアの中でも上演回数が少ない作品のひとつとして挙げられています。原題はAll's Well That Ends Well.になります。
「終わりよければすべてよし」と聞くと、なんだか前向きなイメージが浮かんできますよね。でも戯曲の内容は問題をはらんだものです。喜劇風にハッピーエンドの体裁を取っていますが、内実は喜劇でもハッピーエンドでもないという皮肉がこめられているのです。内容通りに日本語のタイトルをつけるとすれば「結果がよければ手段は問わない」といった風になるでしょうか。
シェィクスピアといえば、その全戯曲を翻訳したことで有名な東京大学名誉教授である小田島雄志先生は、私にとって大学の英語の先生にあたります。気さくな先生で、下北沢の定食屋なんかでご一緒することもありました。授業で印象に残っているのは『真夏の夜の夢』のお話です。日本では坪内逍遥が最初に訳して以来『真夏の夜の夢』という訳題が用いられてきていて、そのタイトルでヒットした歌謡曲があったりもします。原題はA Midsummer Night's Dream.小田島先生はこれを「真夏の夜」と訳すのは間違っている!とおっしゃっていました。「ミッドサマーというのは夏至のことで、日本でいうところの真夏にあたる季節ではない」と。ですから小田島先生訳のタイトルは『夏の夜の夢』になっています。
さて、もう一つの思い出話にお付き合いください。私が中学生だった頃の話です。クラス担任の先生に目をつけられた私は、ことあるごとに呼び出されては注意を受けていました。やれ「勉強に集中できていない」だの、やれ「無駄なことに時間をかけすぎる」だの、なんだかんだと口を挟んでくるのです。さすがに「○○と一緒にいるのはやめるように」と、友人関係にまで文句をつけてきたときには、腹が立つのを通り越して「許せない!」とまで思っていました。それからというもの、「英語に力を入れないでどうする!」と叱られたなら、次の定期テストでは英語には目もくれず、理科と技術のテストで満点を取ったりするという、反抗を試みていました。何をやっているのだか…と今から思えばあきれる話ですが、それでも今だから気づくことは「結果的に勉強していた」という点なのです。反抗して勉強しないという方向だってありえたはずなのですが、そうするのが悔しかったというところがポイントなのです。逆説的にではありますが、その先生は私にとって「ありがたい存在」であったわけです。少なくとも「やればできるのに」などといった甘いことを口にするような先生よりはずっと助けになったと、今では思えるからです。
こんな風に考えることができます。大切なのは「机に向かって勉強する」という行為そのものであると。生徒が何はともあれ「やってやるぞ」と決意して机の前にすわって鉛筆を握って問題に取り組む。そういう姿勢そのものが何よりも重要な意味を持つのだと。それに比べれば「どのように勉強すればよいか」というアドバイスなんて、むしろ二次的なものなのかもしれません。論理的に納得して行動を起こそうが、感情に突き動かされて「やってやる!」と決意して始めようが、「終わりよければすべてよし」なのです。
なんだか「結果がよければ手段は問わない」というエピソードの紹介になってしまいましたが、中学生の頃には考えもしなかった内容です。結果的に勉強に向かう姿勢のおかげで、東大に合格して小田島先生の授業を受けることができたのですからね。中学の担任の先生にあらためて感謝です。
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「実現可能」
11月も半ばを過ぎました。塾からの帰り道にふと夜空を見上げると、またたいている星が目に入りますよね。まるで「頑張れ!」と励ましてくれているような気がしてきませんか?!私の記憶の中にも、自分が受験生だった頃に冷たい空気に包まれてオリオン座を見上げていた場面が、確かに刻まれています。夜が長く感じられる季節になりましたよね。暦の上ではもう冬ですから。受験生はいよいよ追い込みの時期に突入です。「あと少し!ラストスパート!」と、わき目も振らずに勉強に集中できればいいのですが、リミットが迫ってきているという焦りから、不安で仕方がないという思いを抱える生徒も増えてきます。夜中に一人で勉強をしていると、急に変なプレッシャーを感じてしまったりね。私のところにも「自分には無理です」という悲鳴にも似たうったえが届けられることがあります。志望校に合格できないのではないか、という不安でいっぱいになってしまうのですね。自分が思い描いていた理想には結局手が届かないのではないか…。一度でもそんな考えが思い浮かんでしまったら、頭からネガティブなイメージが離れなくなりマイナスの感情がどんどんこみ上げてきてしまいます。精神的に過剰なストレスにさらされている状態に陥り、どうにもがまんができなくなるのです。すると防御的な反応として、ストレスの原因を「なかったことにしよう」という心の働きがおこり、願望そのものを遠ざけようとしてしまうのです。「そんなことは本当は望んでいませんでした」と。それが「自分には無理です」という発言にいたる経緯なのです。けれども受験を避けることはそもそもできませんし、一度思い描いた願望を忘れることもできません。ですから不安から逃れることはなかなかできないのです。
ではどうすればいいのでしょうか。不安な気持ちを、むしろ受け入れてしまうことに重点を置かなければなりません。もちろんそれは逃げ出したくなる気持ちをぐっと抑えることになりますから大変な作業です。でもだからこそ、サポーターであるわれわれが存在するのですよ!私はこの時期、生徒からのギブアップ宣言ともとれるこうした発言を聞くと、ようやく受験生として本気になった証拠だねと、生徒と一緒に肯定的に受けとめることにしています。自分のことを客観的に見つめられるようになる第一歩だと考えるからです。どうして「無理だ」と思ってしまったのか?きっかけとなった出来事が必ずあるはずです。そもそもの理由が何かしらあるものなのです。その原因と向き合わないで逃げ出してしまっても、事態は改善しませんよね。不安と向き合うことから始めるしか解決の糸口は見つからないという覚悟を決めて、一緒に原因を探求するのです。
テストで思うように得点できなかった科目があるのではないですか?その苦手科目を克服するために勉強のスケジュールを立てたものの、予定通り進まなかったのではないですか?思うような結果が出せなかったからといって、また思うように計画が進まなかったからといって、やり方の検証や反省を加えもせずに願望そのものを消してしまおうとしては元も子もありません。必要なのは方法を変えてみることなのです。理想に向かって進むことをあきらめるのではなく、実現可能なものにするためにこそ、進み方を修正しなくてはならないのです。志望校合格という最終的な目標地点を変更することは考えません。
今のままでは目標に到達できない!という焦りはそのまま受けとめましょう。それでも目標に近づいていかなくては望みは叶えられませんから、少しずつでも近づいているというイメージを持つことが重要になるのです。到達地点までの距離を「小分けにする」という感覚が必要になりますよ。「ここまではできた!よし、次だ!」というモチベーションですね。小さな達成感を重ねることです。そうすることで不安というマイナスの感情は払拭されていきますから。実現可能だという気持ちを一貫して持ち続けることが何よりも大切になってくるのです。
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「傾斜配点」
傾斜配点という業界用語?をご存知でしょうか。何の業界かと申しますと、受験業界ですからね。英語・数学・国語の入試の配点がどれも100点であるならば、それは均等配点ということになります。均等=どれも同じ、ということですね。これに対して、英語200点、数学50点、国語100点といったように、独自の配点で特徴を出す学校もあります。思い切って英語に比重を置いたバランスで、英語の得意な受験生を受け入れたいという学校の判断です。傾斜=バランスを変えた、ということです。「英語が好きで、数学が苦手な私にぴったりです!どこの学校ですか?」という声も聞こえてきそうですが、残念ながらこの配点は大学入試のお話です。
さてここで、一見関係がないような話題を取り上げます。総選挙についてです。衆議院は小選挙区比例代表並立制で選挙が実施されます。公民の授業で必ず扱うはずですよ。特に注目されるのが各選挙区で当選者が一人しか出ないという小選挙区制です。皆さんの地元でも誰か必ず一人の代議士がいるはずです。覚えておいても損はないと思いますよ(笑)。
多数決という意思決定の仕組みを皆さんもご存知でしょう。皆さんが最初に使ったのはいつのことだか覚えていますか?校庭で友達と一緒に何をして遊ぶのか。いろんな意見が出てまとまらない。はやく遊び始めたいのに時間が過ぎて行ってしまう。そんな時に一番希望者の多いドッジボールにしようよ!といって決まった経験はないですか。学校生活ではおなじみの考え方ではないでしょうか。
小選挙区制の選挙というのは有権者による多数決で一人の代表を選ぶやり方なのです。ですから極端なはなし、二人の候補者がいて、片方が51%の得票率、もう片方が49%の得票率で、ほとんど差がないような場合でも、一人でも多くの票を獲得した候補が当選となるのです。落選した候補に投じられた票は「死票」と呼ばれるのですが、小選挙区ではこの死票の数が増えてしまうのです。その弊害を改善するために比例代表制の選挙が同時に行われているのでしたね。得票率に応じて議席を配分しようという発想です。これだと無駄なく有権者の民意を反映させることができます。配分の方法である「ドント方式」も公民の学習で確認しておいてくださいね。
さて傾斜配点に話を戻します。多数決は傾斜配点の考え方に基づいている、というと皆さんは理解できますか?こういうことです。「1位に100点、2位以下はすべて0点」という極端な傾斜配点によって多数決は行われているのだと。「ちょっと極端なルールだな」という認識ができれば公民の理解も深まりますよ!
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「悪魔の証明」
「国語は苦手ではないです」という教え子君が、目の前で入試問題を解いてみせてくれることになりました。なにも「僕が解いているさまを、先生にぜひ見せたいんです!」という要望があったわけではありません。苦手ではないとは言うものの、自信を持って得意だ!とは言い切れない生徒です。自分でも何か足りないところがあると思うからこそ、相談に来たのでしょうから。そこで「じゃあ実際に解いてみせなさい」ということになったのです。
50分の試験時間が設定されている問題でした。快調に解き進めている様子が伝わってきます。でも40分を過ぎた頃からそわそわし始めました。どうしたの?と聞くと「解き終わりました」というのです。まだ試験時間終了まで10分もあるよ!見直しをしたり、できることがあるでしょう?と聞くと「見直しもしましたし、もうこれで答えが変わることはありません」と断言するのです。なにやら「国語が得意ならば速く解き終わるものなんじゃないですか」とでも言いたげな素振りです。
これから採点をする私にしてみれば、この時点ですでに答案には何か重大な見落としがあるに違いない、と予測がたってしまいます。出題文を丁寧に読んでいないのではないか?設問をしっかりと吟味していないのではないか?教え子君には申しわけないですが、ダメ出しをする気満々で、採点を始めることになりました。
まずは出題文も設問も、ちゃんと時間をとって読み解きます。○×だけつけておしまいというわけにはいきませんから。解いているうちに、教え子君がすぐに解き終わったと言いたくなる気持ちもわかりました。50分の試験時間の割には設問数も少なく、ほとんど記号選択問題だったのです。教え子君が「えい、やっ!」と適当に記号を選んだとは思いませんが、本来ならば時間をかけて確認しなくてはならないことを、やらずにすませてしまったに違いないと、選択肢の特徴から理解しました。「本文の内容と一致するものを次の中から選びなさい」というパターンがほとんどなのです。この場合、不可欠な手続きとして選択肢の一つひとつの文を文節レベルまで丁寧に分析し、きっちりと消去法で答えを導き出さなくてはなりません。今回の問題の場合、さらに大変だったのは「この選択肢の文に示されている内容は、本文のどこにも書かれていないことがらなので、正解だとはいえない」という形式の消去パターンを駆使する問題が多いという特徴があったのです。これは曲者なのです。設問数が少ないのに試験時間が長い意味がわかりました。そこで教え子君に聞いてみました「悪魔の証明って知ってる?」と。
「悪魔の証明」というのは、ある事実や現象が「全くないこと」「存在しないこと」を立証する場合に、そう呼ばれます。その意味合いは「証明することが非常に困難であること」「そもそも不可能に近いこと」にあります。たとえば、「近所の公園にカブトムシがいる」という事実は、その公園で一匹でもカブトムシを捕まえれば、立証に成功したことになります。けれども「公園にカブトムシは一匹もいない」という事実を立証しようとすれば、「捕まえられなかった」というだけではすみません。一匹もいなかったというからには、公園内に生息する昆虫をすべて捕まえた上で「その中にカブトムシは存在しなかった」ということを示さなくてはならないからです。「存在=ある」ということの立証と「不存在=ない」ということの立証では、その難易度が天と地ほどの差があることがおわかりでしょう。
また別の見地からこんな例はどうでしょうか。お母さんから「リビングにハサミが置いてあるからとってきて」と頼まれたものの、探したけれども見つからなかった場合、「リビングにハサミはなかった」と言い切れるのか?という問題です。「ない」とこたえているのに「本当にちゃんと探したの?」と聞かれれば、どこまで確認すればいいのか自信が持てなくなってしまいますよね。さらに、お母さんが探しに行ったら「ここにあるじゃないの!」と言われてしまった経験があったりしませんか(笑)。ことほどさように「ないものはない」と明らかにすることは困難であるわけです。
入学試験でこのタイプの「本文中に書かれていないことを根拠に選択肢から外す」という問題が出題された場合に、「ない」ということの確認のためにチェックし続けるとしても、時間も限られている中でどこまでやればいいのか?という悩ましい問題を抱えることになります。出題者としても、その点を配慮して「試験時間」と「設問数」を決定しているはずです。ですから、「ない」と思っていたのに「ほら、ここにあるじゃない!」と言われないようにするために細心の注意を払って限界までチェックすることは、試験においては可能なのです。
教え子君には、試験時間の設定にはちゃんとした意味があるということと、「手がかりがない」ことを探すタイプの問題は特に、時間をかけてチェックしなくてはならないということを伝えました。国語を得意だと言えるように精進することを宣言してくれましたよ。
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「宿題」
さて先月のこのブログでは、思春期と壮年期とでは感受性が異なるという話になりました。平穏無事という言葉の受けとめ方にしても百八十度違うということでしたね。とかく大人の気持ちと子どもの気持ちというのはすれ違うものなのです。大人としても自分が子どもだった頃のことを忘れてしまったわけではないのですが、人生も折り返し地点を過ぎると景色の見え方が違ってくるのです。様々なことに対して、子どもの頃とは正反対とも思える受けとめ方をするようになるものなのですよ。
では皆さんにとって衝撃的ともいえるその典型例をお示ししましょうか。それは「宿題」についてのリアクションです。「来週までに単元全部、例題含めて練習問題を全部やってきなさい!」という、あの宿題です。皆さんにしてみれば「宿題さえなければ夏休みは最高なのに」というシロモノでしょう。もちろん宿題の必要性を認めないわけではないでしょうが、「なければいいのに」というのが素直な反応ではないでしょうか。理屈っぽい生徒さんなら「授業で解決されずに残った課題じゃないですか!授業時間以外に家庭で行うように指示されるのは納得いきません!」とまあ、やりたくない理由の一つも述べるところでしょう。ところが、大人にとってみれば「宿題があるなんてありがたいことなのよ」という発言が平気で出てきてしまうのですよ、これが。「なければいいのに」という反応に対して、「あるのがいいのよ」という反応ですから、まさに正反対となりますよね。
「大人は自分が宿題をやるわけではないからそんなことが言えるんです!子どもが家でダラダラしないように、どんどん宿題を出してほしいという理由でしょ!」と皆さんは考えるかもしれませんが、ちょっと待ってください。そうではなくて「人生における景色の見え方の違い」についての話なのです。一体それはどういうことなのでしょうか?
宿題というのは「解決されずに残された課題」という意味です。では誰が解決しなくてはならないのでしょうか?もちろん課題を与えられた人物、宿題を抱えている本人です。当たり前の話ですが、この明確な使命が大人にとっては、文字通り「有り難い」のです。やらなくてはならないことが自分にはある、という状況が幸せであるという認識が大人にはあるのです。解決を期待され、それに応えようと頑張ることが、どれほどの充実感を人生に与えるかということを大人は知っているからです。ですからつい、宿題に追われている皆さんに対して「毎日が充実していていいじゃない!」と思ってしまうのです。皆さんが「他にやりたいことがあるのに!」と言ったとしてもね。悪気はないのですよ(笑)。
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「平穏無事」
「へいおんぶじ」と読みます。「平穏」というのは漢字をそのまま訓読みすれば「平らで穏やか」ということですよね。「平ら」とは「浮き沈みがなく、変わったことがない」という意味になります。「穏やか」というのは「安らか」と言い換えてもいいですね。ですから「平安」という熟語も同じような意味になるわけです。「無事」というのも漢字そのまま訓読みすれば「(特別な)ことがない」という意味ですよね。特別といっても嬉しいサプライズとかいう話ではなく、よくないことに近いニュアンスになります。「悪いことが起こらなくてよかった」という意味を表しているのです。「つつがなく」という和語に置き換えることもできますね。
ですから平穏無事というのは「変わったことがない」と「特別なことがない」の二つの同じような意味の熟語を組み合わせて、「何も起こらない」という内容を強調した四字熟語になるわけです。年賀状でのあいさつの文面に「おかげさまで家族みな平穏無事に暮らしております」というパターンがありますが、平穏無事という四字熟語がかもし出す雰囲気をよく表している用法だと思います。何もなくてよかったです、という報告になりますから。でもこれが言えるのは、人生経験をつんできた大人だからこそなんですよね。小・中学生の皆さんにとってみれば「何も起こらない」というのがそんなにいいことなのか?と、正直思いませんか!平穏無事をありがたがる大人の感性というのは、一体どうなっているのか、不思議に思ったりしませんか?
自分の身に新たに何かが起こるというケースを考えてみて下さいね。成長の過程にある思春期の皆さん方であれば、これまでできなかったことができるようになるといったポジティブな変化がほとんどでしょう。ついこの前の自分と比較してみても、それは明らかではないでしょうか。同じ中学生でも一年生と三年生では大人と子どもの違いにすら感じられるでしょう。これほどの心身の変化は、人生の中でも他にはありませんからね。ところがある程度年齢が進み人生も後半にさしかかると、これまでできたことができなくなるという、皆さん方には想像もできない場面が出現するようになるのです。ネガティブな変化ですよ。階段をかけ下りられなくなる…小さな文字が読みにくくなる…固有名詞が覚えられなくなる…「それは老人の話じゃないですか?」という声が聞こえてきそうですが、これらのことは老人になって急にできなくなるのではなく、徐々に進行していく現象なのです。何を隠そう私が現に体験していることばかりです(笑)。成長のピークを過ぎれば、あとは下り坂に向かうという自然現象なのですが、なんとかこれに逆らいたいと思うのが人情というものです。老化を防ごうとするアンチエイジングという言葉を皆さんも耳にしたことがあるのではないでしょうか。だとするならば、平穏無事であってほしいという大人の願いの切実さが分かろうというものでしょう。むしろ、このままがいい!という心の叫びでもあるわけなのです。
私と同世代である方々が多い思春期のお子さんを持つ親御さんというのは、ちょうどこのエイジング(良く言えば「熟成」、悪く言えば「老化」)がどんどん進行する時期でもあるのですよ。一方で子どもはというと反抗期の真っ只中。話しかけても口ごたえされるか、返事すらないか、そんな状況です。もちろんそうして親離れが進んでいくのですが、親御さんにしてみれば「子どものままでいてほしい」というのは、心の奥に秘めた望みでもあるわけです。このまま自分も家族も変わらずにいてほしい!平穏無事にこめられた親御さんの思いというものを、ほんの少し理解してくれればいいのですが…反抗期がそれを許さないのですよね。皆さんが「中学一年生のままでいたい!」などと望まないのは百も承知なんですよ。
「何も起こらないようにする」というのは、心配性の大人が「子どものために何も起こらないでほしい」と願い、その価値観を子どもに対して押し付けているわけです。それではいけない!ということは親御さんもよく分かっているのです。何も起こらなければ何もできるようにならないし、何よりそれでは子どもが楽しくないではないか、と。子どもの成長を願うならば、新しいことへのチャレンジを後押しして応援し続けよう。挑戦する子どもたちの姿にハラハラしながら気をもみ、ドキドキしながら見届けよう。そんな平穏無事とはかけ離れた波乱万丈な心理状態が続くのですから。せめて平穏無事を祈ることぐらい、親御さんにさせてあげて下さいね。私からも皆さんにお願いします。
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「俗情に流される」
極めてオトナ度の高い「言い回し」ですよね。教え子の小中学生の皆さんが日常で使うことは皆無ではないでしょうか?「俗情」とは「俗」な心情、心のことです。そして「俗」というのは、「ありふれた、世間普通の」という意味から、さらに軽蔑の意味を込めると「いやしい」という意味にもなります。ですから「俗情」というのは「世間一般の人たちが思ってしまいがちな、いやしい気持ち」ということになります。「流される」というのは「ついついそんな気持ちになってしまう」ということですね。今回は特に、新しく中学校生活を始める皆さん方に「俗情に流されるな!」という言葉を贈りたいと思います。
「え〜、なんだか怖いな〜」と、そんな気持ちになるかもしれませんが、小学生の頃とは違うんだということを意識してほしいからです。何が違うのか?小学生の頃の勉強の仕方とは大きく違う点が中学校生活にはあるのですよ!それは、いわゆる「中間テスト」「期末テスト」という「定期テスト」が、年間の学習スケジュールに組み込まれていることです。あらかじめテストの日時は決まっているのですから、それに向けての学習計画をしっかりと立てなくてはならない、ということになるのです。テスト準備のため、毎日気を抜くことのできない勉強が続くのですよ!
昨日も今日も友達と遅くまで遊んで、明日も遊ぶ約束をして、小学生の頃は「今、これがしたい!」という気持ちを、存分にかなえることができました。ところが、中学生となった皆さんには、もうそんな「どうしても今これがしたいんだぁ!」というような駄々っ子的な俗情に流されることは許されないのです!なんて、ちょっとおどかし過ぎましたか?それでも本当に「中間テスト」「期末テスト」と容赦なく、全ての科目でテストが行われます。準備を怠れば、悲惨なテスト結果が待ち受けており、そしてそれが「成績」として白日の下にさらされる…小学生の頃とは決定的に何かが違うのです。
それはこんな風に考えてください。皆さんに中学校の三年間で身につけてほしいとオトナが考えていることがあるからだ、と。そしてそれは「長期的計算」ができるようになってほしい、ということなのです。長期といってもせいぜい一ヶ月ですが、それで十分です。「中間テスト」「期末テスト」があるのは、そのためなのです。
ものごとには全て行きがかりがあり、かつまた因果は巡るということ。今日だけで時間が終わるわけではなくて、明日以降の未来もあるのです。小学生の頃は「ずっと今日が続く」という時間感覚であったものが、中学生では「期末まであと三週間!」といった区切りを意識した感覚になります。これが「長期的計算」に基づいた振舞いが求められる、という意味です。せめて一ヶ月は「逆算」して計画を立てられるようにならなくてはいけません。今日「気が済んだ」としても、明日や明後日にどうなるのかが問題なのです。一ヵ月後に結果が出せるように、明日、明後日につながる今日をどのように過ごさなくてはならないのか。「長期的計算」とはそういうことです。今日の振舞いで「気を晴らす」ことよりも優先しなければいけないことがあるのです。
「え〜、やっぱり怖いな〜」と、そんな声が聞こえてきそうですが、でも大丈夫。誰もがオトナになるまでに通った道です。三年間かけて身につければいいのです。そのための手伝いを、われわれは惜しみませんから!
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「英文解釈」
「英語の勉強ってきりがないじゃないですか!やってもやっても次から次へと知らないことが出てきて。単語でさえ、全部覚えたと思っていたのに、問題文の中に知らない単語がいくつもあって。日本語に直せといわれても無理ですよ。見た瞬間、終わったと思って……。」普段は無口な生徒なのですよ。ところが一度話し始めると、思っていることがすぐさま言葉になってあふれ出してきてしまってとまらないのです。こちらが確認のためにさえぎりでもしない限りは、時間が経つのも忘れているかのようです。
ちょっと待って。単語を全部覚えたっていうのはどういう意味で?「えっ?だから全部ですよ。テスト範囲のテキストに出てきた単語を全部ちゃんと覚えたということです。」どうやら定期テストの話をしているようです。その時に出題された英語の問題のことを話題にしているのですね。砂漠に水をまくかのような英語学習の困難さに直面して、これから先のことが不安になっていたのかと思って聞いていれば、その同じ口で、単語は全部覚えました!などと大風呂敷を広げるものですから。一体何が言いたいのか、話の意図をつかみかねていました。要するに、準備万端でテスト範囲の英単語も全部覚えて試験に臨んだのに、やっていない単語をふくんだ問題が出たといって怒っているのでしょうね。そう思った私は軽い気持ちで答えてしまいました。そんなこともあるよ、100パーセントのテスト準備なんてことはそもそもありえないと思わなくちゃね。ところがこの一言が火に油を注ぐ結果をまねいてしまいました。「そんなことってどういうことですか!知らない単語が出るってことですか?出たら終わりだと覚悟しろってことですか!」
不用意な一言を取り消したくても時すでに遅しです。間違ったことを言ったとは考えていない私は、ごめんごめんと謝るのも変な話だと思ったので、変化球ともいえる言葉を投げかけて相手の気持ちを落ち着かせることにしました。一種のなぞなぞを出題したのです。「終わりだと覚悟する」という相手の言葉を受け取って、「終わりではありませんよ。むしろ始まりだと思ってくださいね」と、返しました。なぞなぞ風に言いかえるならば「終わりだと思ったら、始まりだったものがありました。さて、それは何でしょうか?」になりますね。そしてその答えが何かというと、今回取り上げた四字熟語である「英文解釈」なのです。「どういうことですか?説明してください!」と、当然聞きますよね(笑)。
「英文解釈」といのは、英語で書かれた文章の内容を自分なりに理解して日本語で表現するということです。自分なりに、と書きましたがもちろん自分勝手な理解ではダメですよ。客観的にみて理解が得られるような内容でなくてはなりません。それでも自分なりにと表現したのは、解釈の仕方にはバラエティがあるということです。なぜなら英単語一つひとつの意味をたとえ正確に日本語に置き換えるという逐語訳をしてみたところで、英文に表現された内容が再現されるかというと、そうではないからです。英文であってもそこには作者がいて何かを伝えたくて文章を書いているのですから、その作者の意図をくみ取らなくてはなりません。逆に言えば、たとえ単語の一つや二つ意味が分からないとしても、文章全体の流れをしっかりと把握していれば、作者の意図をふまえた解釈を日本語で表現することは十分に可能だということです。むしろそこにこそ英文解釈の醍醐味があるとも言えます。
私のところに相談しにきた生徒のように、テストの英文に知らない単語が出てこようものなら、すぐさまテンションが下がってしまうタイプの人がいます。せっかく調子よく文章を読み進めてきても「あっ、この単語知らない!えっ、また知らない単語だ!あぁ、もうだめだ、終わった。」と、あきらめてしまうのです。けれどもそうではなく「よし、ここからが始まりだ!」と気持ちを切り替えて臨むことが入試英語には必要だと思いますよ。大学入試はもちろん、ハイレベルの高校入試の英文でも、試験問題を目にして単語が全部わかるということのほうが少ないと思いますからね。むしろ知らない単語は絶対に出てくると覚悟しておいたほうがいいでしょう。ではそのときにどこで答案の差がつくかといえばまさに解釈の差になるのです。前後の文脈からこんな意味になるはずだと推測しなくてはなりません。そこで当たらずといえども遠からずという解釈ができるかどうかが勝負なのです。
相談にきた生徒にはこんなアドバイスもしました。単語を覚えることはもちろん大切なこと。それにしっかりと取り組んでいるあなたは立派です!テキストの予習でも、知らない単語をチェックして、辞書を引いて調べていることでしょう。でもその前に、知らない単語の意味を文章の前後から判断して「こんな意味ではないかな?」と予想してから辞書を引く習慣をつけてみてください。最初は手間がかかると思うかもしれませんが、とにかく自分なりに答えを出してみてくださいね。そこから何かが始まるはずですから!
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「受験勉強」
冬の朝、窓を開けると、キーンと冷え切った空気が流れ込んできます。その朝の空気を胸に吸い込むと、私の脳裏にはある情景がよみがえってきます。受験当日の朝です。試験会場に向かうために乗り込む電車の駅まで歩いていった時のことです。家を出てから時間にして五分ほど。その間に次々にわいて出てきた、おそれや期待や自信や不安などといった様々な感情。これらがないまぜになって、朝の空気と一緒に胸の中によみがえってくるのです。受験の日からすでに、三十年以上経っているにもかかわらずですよ。「人生」を感じてしまう瞬間なのです。
ですから皆さんにも、特に受験生である中三生には、伝えたいのです。「この冬の一瞬一瞬は、たとえ意識していなくても、一生胸に刻まれるような、特別な時間なのだ」ということを。受験勉強は、なにも冬に限ったことではないのですが、やはり、受験が間近に迫った、この時期だからこそ感じることのできるものがありますよね。「先生!暑い夏に、半そでのシャツで通った夏期講習にも、特別な思い出がありますよ!」うれしいことを言ってくれる教え子君がいます。そうですよね。なんだか毎日顔を合わせていたかのような日日でしたよね。でもやっぱり、この冬の時期だからこそ、「夏は暑かったよな!」と、特別な思いが込められるのだと思いますよ。
高校受験は、日本に生まれた君たちの同い年、百万人が体験するものです。中学受験とも大学受験とも違う、いわば同世代の「分厚い共通体験」なのです。私も中学受験・高校受験・大学受験・大学院受験と何度も受験を経験し、その都度受験勉強に打ち込んで?きました。そんな中で、最も悩み深かったのが高校受験であったと言えます。やはりそれは十五歳という年齢的な要素が大きく影響しているものと思われます。精神的なブレが激しく、昨日と今日の自分がまるで別人といった様相でしたね。何者でもない自分に自信が持てずに、周りにあたりちらして意地を張ってみたり、周りは何もしてくれないと不安にさいなまれて意気地をなくしてみたり。逆に、何者にでもなれる自分の可能性に意味もなく満足して、生意気な態度をとってみたり。
皆さんも、そんな「自己の確立」の時期にむかえる高校受験です。受験勉強のさなか、途方にくれたこともあったでしょう。でも大丈夫。新しい年を受験生として迎えることができました。二〇一九年は君たちの受験の年なのです。人生の中で「受験の年」として刻印されるこの年に、震えながらも堂々と立ち向かっていってください!十五の春はすぐそこまで来ていますからね!
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「必勝法」
「テストに必勝法なんてないですよね?」切羽詰った様子で教え子君がたずねてきます。けれども、本当にそんなものがあることを期待しているのではなさそうです。どうやら「必勝法はない」ということをわざわざ確認したいようなのです。「自分の知らないうまいやり方があるのではないかと思えて、勉強に集中ができない…」という弱音をはいてみて、「そんなものがあるわけないだろう!四の五の言わずに腹をくくって勉強しろ!」と、活を入れてもらうことが目的のようです。はじめから否定されることを前提に「そうですよね!しっかり頑張ります!」という前向きな発言をするつもりで、必勝法を聞いているのでした。ですから「必勝法を教えてください!」ではなく、「必勝法なんてないですよね?」というたずね方になるのです。
そのことを分かった上で、あえて答えます。「今から七百年も昔に、必勝法は明らかにされているよ。超有名な随筆の中でね。では問題です。文学史の常識、日本三大随筆といえば?」急に質問で返された教え子君は戸惑っているようですが、さすがに「文学史の常識」とまで言われれば知らないではすまされません。「清少納言の枕草子と、鴨長明の方丈記と、吉田兼好の徒然草です!」正解ですよ。ついでに「七百年前」という条件に合うのはどの随筆なのかということも確認しておいてくださいね。平安時代中期の枕草子は約千年前、鎌倉時代初期の方丈記は約八百年前、そして鎌倉時代末期の徒然草が約七百年前ですからね。
「徒然草にテストの必勝法が書かれているんですか!?」と教え子君は色めき立っていますが、勝負事の必勝法を徒然草の百十段は示しているのです。短い段ですので、全文を引用してみましょう。
双六の上手といひし人に、そのてだてを問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手かとく 負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」といふ。道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、又しかなり。
以下に意訳をしてみましょう。すごろくの名人と呼ばれている人に、その必勝法を聞いてみたところ、「勝とうとしようと思って打ってはいけない。負けないようにしようと思って打つのだ。どんな打ち方をしたらすぐに負けてしまうかを予測して、その手は打たないようにして、一マスでも負けるのが遅くなるような手を使うのがよい」と答えた。その道を極めた人の言うことであって、これは研究者や政治家の生き様にも通じる。こんな意味になります。
徒然草には他にも「名人」と呼ばれる人物が登場しますよね。弓矢の名人であったり、木登りの名人であったり。それぞれに、含蓄のある言葉を発してわれわれをうならせてくれます。弓矢の名人なら「二本の矢を持つな!一本入魂で行け!」だったり、木登り名人なら「油断大敵!高いところよりも、地面に近いところが危ない!」だったり、なるほどな!と思わせる話が紹介されています。勝負事の必勝法について教示してくれるのは「すごろくの名人」です。すごろくといっても、皆さんが知っている、さいころを振って上がりを目指す「人生ゲーム」のようなすごろくではなく、「バックギャモン」(かえって皆さんにはなじみがないですよね。ヨーロッパで人気のボードゲームです。)に近い対戦型ゲームのようです。日本では平安時代に大流行しています。枕草子や源氏物語にも登場するほどです。当時の大人気競技の名人に話を聞くという内容ですから、平成の今に当てはめるならば将棋の羽生名人に必勝法をたずねるというかんじでしょうか。『決断力』というタイトルの新書がベストセラーにもなった羽生名人ですからね。今も昔も、勝負の世界に生きる人からヒントをもらう、というのはかわらない欲求なのでしょう。
さて、教え子君に伝える「テストの必勝法」でした。すごろく名人の話をテストに置き換えてみましょう。「負けないようにすること」というのは、すでに経験したことをふまえて「これをやるとまずいことになる!」というパターンを避けるということ。逆に「勝とうとすること」というのは、経験したことはないがあえてチャレンジしてみること、になります。やったことがないパターンにチャレンジすることですね。既存のルールをはみ出したところに独創性は生まれるものです。けれども、テストの意義を考えてみましょう。それは「やったことが試される」というものです。テストとはあくまでも「学習済(経験済)のことがらの定着が試される」という趣旨のものです。発想のユニークさが評価されるというようなものではないのです。それは数十分のテスト時間で求められるものではありませんよね。ですからテストの必勝法は、「四の五の言わずに勉強して、経験値を上げろ!」ということです。結局、活を入れることになりましたね(笑)。
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「ざっくりと」
「あれだけ計画通りにやったのに全部覚えることができませんでした。私って記憶力がないんでしょうか?」中学二年生の女の子です。白か黒かはっきりさせないと納得できない!という思春期真っ只中。「記憶力がない」と言い切ってしまうあたりに「全部できなければ、ゼロと同じ!」という生真面目すぎる性格があらわれていますね。
「300語の中から出題されるという英単語のテストがあったんです。一度に長時間かけて覚えるよりも、短い時間でも毎日続けて覚えたほうがいいというアドバイスに従って、ちゃんと準備したんです。」それでいいと思いますよ。一夜漬けで覚えこんだとしても、結局身につかないですからね。それでは将来的に役に立ちませんから。「何度も繰り返して、着実に進めたのに。本番のテストで間違えてしまったんです。」といっても、9割以上は得点できたんでしょう。十分だと思いますよ。「一ヶ月も準備して、満点を取れないなんて!自分が許せないんです。」あれあれ、これは「ほぼ満点だからそれでいいんだよ」という話をしても納得しないな、と思った筆者はアプローチを変えることにしました。一ヶ月毎日継続して勉強したというけれど、どんな風にやったの?「毎日少しずつ進めました。30日間あったので、一日10個の単語を確実に覚えるという計画でした。」え?じゃあ、一つの単語は一回しか覚えるチャンスがないということ?「違います!一日に10個ずつ増やしていくつもりで、何度も繰り返しました。」どうして一日10個にしちゃったの?「え?一度にたくさんやるのではなくて、毎日少しずつやるほうが効果的だからって…」ああ、それはね、「少しずつ」の意味を取り違えているよ。少しというのは単語の量の話ではなくて、かける時間の話なんだよ。
300個の単語を覚えようというときに、300分=5時間かけて一度に覚えようとするよりも、一日10分でいいから30日かけて合計300分使うほうが、同じ時間であっても記憶に定着するというのは間違いありません。でも、だからといって300÷30=10という計算式で、単語の量まで小分けにしてしまうことはないのです。そうではなく、一日10分で300個の単語を覚えようとするのです!そこでも、10分=600秒だから、一つの単語に2秒かけて覚えよう!などという計算式を当てはめる必要はありません。300個を「ざっくりと」10分かけて1周するのです。
ここで登場したのが「今月の言い回し」です。ビジネスシーンなどで「今日中にざっくりと全体のプランをまとめておいてくれ」などといった用法ですっかり定着した感のある「ざっくり」という言葉ですが、少し前までは「俗語」という扱いでした。辞書に「大まかに。大ざっぱにとらえる」という意味が載るようになったのは、つい最近のことです。
「ざっくり」というのは擬態語の一種になります。擬態語というのは、ものごとの状態や様子などを感覚的に音声化した表現です。でも、実際に音がするわけではありませんからね。「うろうろと歩き回る」という表現で、本当にうろうろと音がするわけではないですよね。では「ざっくり」はどんな様子を表したものなのでしょうか。例をもとに考えてみましょう。「キャベツをざっくりと切る」これは「力をこめて物を切ったり、割ったりするさま」になります。「傷口がざっくりと割れる」これは「深くえぐれたり、大きく割れたりするさま」ですね。「ざっくりとしたセーター」これは「布地などの手ざわりや目などの粗いさま」ですよね。この最後の用法から派生して、「大ざっぱ、大まか」という意味で使われるようになったのではないかと考えられています。
決して悪い意味ではなく「丁寧ではなく大まかに」「細かいことにこだわらず」という語義が「ざっくり」に加わることになったのです。「ざっくりと300語を覚える」というのもそうです。丁寧に細かく覚えようとすれば、10分でできるわけはありません。そこをあえて、一語一語にこだわらずに大まかに300個をさらりと学習するのです。読解においては「自分が納得するまで、細かいところを丁寧にこだわって読み抜く」という態度が大事ですが、暗記という作業においては、一部分だけを掘り下げるよりも、全体をまんべんなく繰り返し仕上げることのほうが重要なのです。
「じゃあ、毎日300語を30日間繰り返し学習すればよかったんですね。」その通りですが、1日10分で続けることがポイントなんですよ。毎日、何時間もかけてしまっては意味がありませんから。そのためには練習が必要だともいえます。経験を積んでこそ大まかにできるようになるのです。「ざっくり」の意味合いはそこにあるのです。
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「餅は餅屋」
中学二年生の教え子のお母様からの相談です。「とにかく過去問を早い段階からやらせるべきだと指導されたのですが、2年生の夏からでは遅いでしょうか?」いえいえ、まだ中学のカリキュラムも終了していないのに、総合問題である過去問に手をつけても、効果は期待できないですよ。「でも、誰もやっていないうちから進めておくのがいいんだって。先行逃げ切りだということらしいんです。」面白い表現ですね。でも作戦の一つではありますが、必ずそうしなければならないというものではありませんよ。一体誰に指導を受けたんですか?「娘の同級生のお母様です。お兄さんの受験で成功されて、自信満々でアドバイスくださるものですから。学年ではカリスマ的な人気?を誇っていらっしゃいます。」ママ友というアレですね。それは人間関係も絡んでいて面倒くさいケースですね(笑)。耳を貸さないで、とは言いませんが、話半分に聞いておいてくださいね。アドバイスが必要でしたら、われわれプロフェッショナルにお任せください。餅は餅屋ですから!
「その道のことはやはり専門家が一番である」ということのたとえに使う慣用表現ですね。お餅は餅屋さんがついたものが一番おいしい!ということです。「餅屋って、それは何ですか?」という声が聞こえてきそうですが、お餅を専門に作る職人さんのお店です、って言ってもピンとこないですよね。では英語でお餅のことを何ていうか知っていますか?rice cakeです。お米のケーキですよ。ですから「ケーキはケーキ屋さんで買う」といえば理解できるのではないでしょうか。手作りのケーキも素敵ですが、やっぱりプロのパティシエ(ケーキ職人)が作るケーキはすごい!という意味だと理解してください。
ママ友さんのアドバイスに話を戻すとするならば、それはこんなたとえになるのではないでしょうか。あるお母さんの作った手作りのケーキがおいしいと評判になり、皆さんでそのレシピを参考にさせてもらいました。けれども、作ってみておいしいかどうかは自己責任でお願いしますね(笑)!と、まあこんな風になると思いますよ。
お餅は家庭で作ることもできます。昔は各家庭でお餅つきを行っていました。それでも、お正月の前であるとか「特別な日」につくだけです。年がら年中ついているわけではありません。「今年のお餅は特別おいしいね」というのがお正月の挨拶のようなものでした。それに対して、それこそ毎日お餅をついて研究を重ねているのが餅屋さんなわけです。お世辞ではなく、本当においしいお餅でなければ誰もわざわざ買ってくれませんからね。プロフェッショナルとは「結果に責任を負うこと」なのです。われわれプロの発言一つひとつの背景には、幾千もの実例が存在します。その上で、この生徒に当てはまるアドバイスは何か?を問い続けているのですよ。安心して餅屋にお尋ねくださいませ!
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「相対評価」
教え子君と話をしていて、それは冗談で言っているのか、それとも本気で言っているのか、よく分からずにいて、事情を理解するまでに随分と時間がかかった、という最近のエピソードをご紹介します(笑)。私は冗談だと聞き流していたのですが、教え子君はどうやら本気でそう思っているようなのでした。
教え子君が力を込めて主張することには「自分は小学校五年生の時が、一番頭が良かった!」と言うのです。私としては単純に、そんなことはないだろう、と話をしました。中学生になって英語も数学も新しく学習し始めて、どんどん知識の量は増えているし、小学生の頃とは比べものにならないほど頭は良くなっていると思うよ、と教え子君の冗談を軽くいなして、自信を持てと言いたかったのです。ところが、教え子君は頑(かたく)なに「五年生の頃は、本当に頭が良かったんです。あぁあ、五年生に戻りたい。」と言いつのります。「ははぁ、今の能力のまま、五年生に戻りたいというヤツか。のび太じゃないんだから、そんな夢想をしていないでちゃんと期末テストの準備をしろ!」と、現実逃避を試みていると思った私は、厳しく教え子君にあたったのでした。さらには「私なんか君の何倍も長く生きてきているが、今でもどんどん賢くなっているという実感があるぞ!」と自慢にしか聞こえない発言をして、教え子君を途方に暮れさせていました。私としては、今日よりも明日の自分は成長している、という話を伝えたかったのです。
「小学生の頃はクラスでも一番できる!って思っていたのに、中学生になってからは、真ん中くらいでしかないし…」ここでようやく私は気づいたのでした。あぁ相対評価の話をしていたのか、と。
クラスの中の自分の順位、といった尺度で評価することを「相対評価」と言います。「一番できるグループが10%で、二番手グループは20%で…」と決められた枠の中で、自分がどこに位置するのかということが評価の基準になります。ですから教え子君は、小学生の頃は一番手グループに属していたが、中学校に入ってからは、二番手・三番手グループをウロウロ…という状況なのでしょう。小学校と違い中学校は、通学のできる区域も格段に広くなり、集まってくる生徒の幅も広がります。当然「できる」生徒もたくさん集まってきますよね。でもこの傾向は、高校・大学と進学するにつれて、さらに拍車がかかってきます。大学には全国から「我こそは!」という人物が集まってくるわけですから。
「え〜。じゃあ大学に行ったら今よりもっと大変じゃないですか。やっぱり小学校がいい。」と教え子君。大丈夫です。大学での評価の仕方は「絶対評価」になりますから。クラスの中の何番手、という評価基準ではなく、この百点満点のテストで80点をこえたものはA判定、といった「基準点に達するかどうか」が評価のポイントになるのです。もしクラス全員が80点をこえたら、全員がA判定になるだけです。「それいいですね!はやく大学生になりたいです!」と、俄然やる気をみせた教え子君なのでした。
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「心にもない」
教え子君のお母様から深刻な相談です。「母親失格です。息子に心にもない言葉を浴びせてしまいました。」母親失格、とまでご自身を追いつめています。反省しきりの様子のお母様ですが、一体何をお子さんに言ってしまったのでしょうか。「受験生なのに、ちっとも自覚がないというか…当然、勉強していなきゃいけないタイミングで、ダラダラとテレビをつけっぱなしにしていて…」それで怒ったのですね、「勉強しなさい!」と。でも、それはどこのご家庭でも繰りひろげられている「日常の風景」ではないでしょうか(笑)。受験生なら注意されて当然ですし、お母様が心配になるようなことではありませんよ。お子さんも「どこかで区切りをつけなくちゃ」とは気づいていたはずです。それでも「次にCMが始まったらテレビを消そう」といった、実に頼りない決意を胸に秘めていたくらいでしょうから、お母様に注意されてようやく区切りがついたというのは、むしろ本人にとってもありがたいハナシなんですよ。「今やろうと思っていたのに!」と文句は言うでしょうが、「だったら言われる前にやりなさい!」と言い放っても問題ないというくらいです。
ここまで私は「受験生の日常風景」というカテゴリーでのお話と理解して、一般的なアドバイスを返していたのですが、ポイントはそこではありませんでした。「心にもないことを」というお母様の発言からも明らかなように、「勉強しなさい!」という小言について反省しているのではないようです。それはそうですよね。勉強してほしいとは心にも思っていない、なんていうことはないでしょうから。では、お母様は一体何を言ってしまったのでしょうか。
「合格するはずないでしょう!落ちてみないと分からないのね!」お母様の反省は、このネガティブな言葉を投げかけてしまったことに対してだそうです。「不合格だの、落ちろ、だの、心にもないことを言ってしまって…先生から感情のマネジメントが重要だと教えていただいたのに…」私が言ったことも覚えていらっしゃるようで、アンガーマネジメント(怒りの感情をコントロールすること)のお話も理解して下さっています。頭では分かっているのですが、わが子に対しては我慢ができずに厳しい言葉をつい…。そうなんですよね、怒りにまかせて口走ってしまいますよね。でもお母様、この際ですから申し上げますが、それは「心にもない」ではなくて「心からの」叫びだということを、しっかりとご認識くださいませ!
「心にもないことを言ってしまってごめんなさい」というフレーズは、謝罪の際の常套句です。本心からではないことをアピールして許しを請うわけですが、実際問題としてよく考えてみてください。人間は思いもしないことを口にすることはありません。怒りという感情が「言ってはいけない」という理性によるストッパーを解除してしまい、その結果口をついて出てきた言葉というのは、実は「心の底では常々そう思ってきたこと」に他なりません。
「先生、私はわが子の不合格を望んでいたりはしませんよ。」それはそうでしょう。しかしながら「こんな調子では不合格になってしまう」と心配していたでしょう?その思いを口に出さず、とりわけ「不合格」をNGワードとして意識してしまうあまり、「そんなことを考えていること」自体をなかったことにして、意識に上らないように心の奥底に閉じ込めてしまっていたのでしょう。それは「言ってはいけないこと」であって、「心にもないこと」ではないのですよ。
「それでも、子どもに対して言ってはいけないことを、口にしてしまったことには違いありませんから」と、お母様。確かに本人を目の前にして言うことではありませんよね。その点は反省して頂いて、では本人の前で口にしないようにするにはどうすればいいのでしょうか?簡単です、本人が目の前にいなければいいのです!「心にもない」などと、「なかった」かのように振舞うのは、ストレスがたまるばかりです。ですからお母様、どんどん我われに言ってください!本人の前では口にできない「本音」を、ぜひお聞かせください!「先生!このままだと息子は合格できないと思います!」そうです、ご相談くださいませ。そのためにこそ、我われ講師が存在するのですから。
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「リーズナブル」
「国語の解答って、いい加減だと思います!」私のところに詰め寄ってきた教え子がいます。成績優秀な生徒さんです。英語と数学の成績は抜群で、本人も「得意です」と自負しています。そんな中で「国語の成績には納得がいかない!」ということなのですが。「国語の読解問題で、傍線部の理由を答えさせたりする場合、数学のように証明ができないじゃないですか。それって数学と違って国語はいい加減だということになると思うのですが、違いますか!」ドキリとさせられる鋭い質問です。単に成績が振るわないことに対するグチを語りにきたとか、国語という科目に対する八つ当たりを述べにきた、というストレス発散のために筆者のところにやってきたのではなさそうです。(あ、ストレス発散でもいいのですよ!内にこもって悩み続けてモンモンとするよりも、外に向けて何かを発信することは精神衛生上もいいことだと思いますので!)真剣な質問に対して、真剣に向き合わなくてはならないと覚悟を決めました。そして次のように生徒さんに返答したのです。「確かに国語の解答は、いい加減ですよ。」あっさりと認めてしまいました。肩透かしをくらったような格好の生徒さんは、かえって戸惑ってもいるようです。そこで、「でもそのいい加減というのは漢字で書いて考えてみてくださいね」と、伝えました。それはどういうことでしょうか?
「良い加減」と書いて「いい加減」と読むことができます。辞書で確認してみてほしいのですが、「いい加減」には相反する意味が含まれています。一つは、生徒さんが指摘した内容での「おおざっぱで、無責任」という意味です。そして、もう一つが「適度」という意味になります。「ちょうどいい加減のお風呂の温度」という用法がなじみやすいでしょう。国語の読解での解釈というのは、この「良い加減」の推論を追求するものなのだということを理解してほしいのです。
「数学とはどこが違うのですか?」生徒さんの追及はとまりません。数学の証明のような論理的推論には、大きな特徴があります。それは「前提がすべて真であれば、結論も必ず真となる」というものです。中点連結定理を使って図形が平行四辺形であるということを証明する、なんていうのはまさにこのパターンですよね。これに対して、国語の読解での解釈というのはどうでしょうか。「傍線部の箇所での主人公の心情を説明しなさい」という問題をイメージしてみてください。決まった定理があるわけではありませんよね。論拠を挙げるとしても、「文章中で主人公がこんな行動をとっている」という箇所を指摘できるくらいです。さらには、そんな行動をとっているからといって、こうした心情でいるに違いない、という結論を導き出すことも、あくまでも蓋然的なもの(確実とはいえないもの)でしかないのです。つまり国語の読解では、論拠に関しても、論拠から結論への移行に関しても、数学的には「いい加減」な推論でしかないと言えます。だからこそ、別の観点から「良い加減」の推論を追求しなくてはならないのです。ここで求められる観点こそが国語的なものなのです。そしてそれは、誰もが納得できるという意味での「合理性」ということになります。
「合理性?…ですか」なんだか難しげな話になって、さらに戸惑いの度を深めている様子にも見えます。英語を得意としている生徒さんですので聞いてみました。「reasonリーズンという単語の意味は知っていますか?」「はい、理由とか、道理という意味です。」「そうですね。ではreasonリーズンがもとになったreasonableリーズナブルという単語の意味は知っていますか?」「え、あ、はい。リーズナブルという言葉は知っています。値段が安いという意味だと思います。」「いえいえ、リーズナブルは合理的という意味なのですよ!」
「リーズナブル」という言葉の本来の意味は「リーズン」という言葉の意味をふまえて「道理に合った・納得のできる」という意味になります。そこから「納得のできる手ごろな値段」という意味で「妥当性のある値段」を意味することもあるのです。「激安」という意味で覚えてしまっている生徒さんはいませんか?決して「安い」というだけではありませんのでご注意を。
国語で求められるのは、このリーズナブルな解答なのです。それは相手を納得させられるだけの妥当性を持った解答という意味になります。ここで言う相手とは「採点者」のことであり、その人を説得するという意識が必要です。コミュニケーションの中で理性を働かせることこそ、国語の学習の目指すべき姿なのです。「問題と向き合うだけの数学と違い、国語には人間の相手がいる、ということですよね?」その通りです。文中の言葉を使いながら、良い加減に相手に伝わる答案を目指しましょう!
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「すきま時間」というのは、予定と予定の間に生じる短い時間を意味する言葉です。そんなわずかな時間でも無駄にせずに、ちょっとした作業にでも取り組めるようにするということが、これまで大切だとされてきました。毎日の予定が決まっているならば、それにともなってすきま時間の方も毎日見込むことができます。ですから少しの時間であっても、それが毎日積み重なることによって大きな効果を生むことになる、と認識されてきました。例えば通勤電車の中で英会話の教材に取り組む、なんていうのはビジネスマンによるすきま時間の活用の典型だといえるでしょう。
最近ビジネスの世界では、あらためてすきま時間の価値が見直されています。これまでは仕事に取り組む時間以外の「すきま」を利用する、という考え方に基づいていたのですが、それが根本から覆(くつがえ)される勢いなのです。原因はスマートフォンの普及によります。つまり、これまであった仕事をする時間や場所に対する制限そのものが、解消されつつあるということです。オフィスの机のパソコンに向かって仕事をする時間と時間の間という「すきま」についての考え方が、そもそも成り立たなくなりつつあるのです。オフィスでなくても自宅でのパソコンを使って在宅で仕事をする、という考えをさらに発展させたものであるといえます。移動中であろうが何であろうが、スマホを片手に「自宅やオフィスのパソコンでやっていた仕事」をまるごと実行することができるのですから。いつでもどこでも仕事ができる、いわば「すきまなし」の世の中に変わりつつあるのですよ!
教育の世界でも、いずれは同じことが起こってくるかもしれません。学校に通って決められた時間割に従って科目の学習を行う、という「当たり前」が変わってくるかもしれませんよ。皆さんにとっては、「すきまなし」で勉強を続けなくてはならない時代が到来することに備えなくてはならないわけですが(笑)。
とはいっても、すきまなしで勉強を続けることには、かえって無理・無駄が生じてしまう危険性もあります。「6時間勉強しました!」と言ったところで、ただダラダラと勉強を続けていただけでは、効果も期待できないでしょう。メリハリをつけて、短時間で集中を繰り返す。「すきま」には集中力を回復させる効果があるのです。ですから長時間勉強を続けるときにこそ、逆にすきま時間を意識するべきなのです。気分転換にすきま時間を有効活用してこそ、集中力も維持できるというものです。「すきま時間に得意科目を勉強して気分転換をしています!」そこまでいけば完璧ですけれどもね。
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「読書百遍」
「どくしょひゃっぺん」と読みます。「百遍」というのは「回数が多い」という意味です。中国の故事にまつわる「読書百遍意自ずから通ず」を略したものになります。「どんなに難しい文章でも、繰り返し読めば自然と意味が分かってくる」ということです。皆さんも耳にしたことがある言い回しではないでしょうか。そして「古臭い」という印象を持つのではないでしょうかね(笑)。
「意味が分からなければ、すぐに検索!」という時代に生まれた皆さんですから、非効率的な「とにかく百回読め!」といった根性論めいた物言いには違和感を覚えることでしょう。でも、この「古臭い」という認識は今に始まったことではなく、昭和の時代から言われていました。小林秀雄が「読書百遍という様な言葉が、今日、もう本当に死語と化してしまっている」と言及していたことが思い出されます。えっ?小林秀雄って誰ですかって?「近代批評の確立者」と言われ、昭和を代表する知識人ですよ。難解な文章で知られ、受験業界では「悪名高い」小林秀雄なのです。大学入試センター試験で、国語の平均点が史上最低を記録した際の出題文が小林秀雄の文章だったものですから。当時の受験生が「イミフー!」と叫んでいたのも、まだまだ記憶に新しいところで今から五年前の2013年のことでした。読書百遍というのは、そんな小林秀雄の文章を読む際に、最も要求される姿勢だと思いますよ。死語と言われようともそれは必要なものなのです。
でも先生!テストでは読書百遍なんてやっていたら間に合わないですし、それができないからこそ実際のセンター試験でも受験生が点数を取れなかったんじゃないですか!鋭い指摘です。時間という制限のあるテストでは、読書百遍という姿勢を貫こうとしても無理が生じてしまうということですね。もとになった故事でも「百回も繰り返し読む時間なんかありません!」という意見に対して、「ひまをみつけて読むのです。雨の日でも、夜中でも、冬の間でも」(人が活動しない時間、という意味)と答えていますからね。何年もかけて読むというスタンスのようです。それでは試験時間内に問題を解くという読解とは、前提自体が違っているということになります。
それを承知で、あえて読書百遍を勧めるとするならばどうなるのか。一般的な読書百遍ではなく、国語のテストの読解に際して求められる読書百遍のあり方を示してみましょう。限られた試験時間内であっても「意味が分かるまでは繰り返し読むことをやめない」というスタンスは崩してはいけません!「先生、それでは間に合いませんよ」という生徒さんには「どこを読むのだと思っているのですか?」と聞いてみましょうか。「出題文を繰り返し読むのではないのですか?」という反応が返ってきそうですが、違うのです。傍線部の意味が分かるまで、設問の意図が分かるまで、選択肢の違いが分かるまで、なのです。そう、出題文ではなく設問を、意味が分かるまで繰り返し読むのです。一体何を要求しているのか。その意図が分かるまでしつこく読み続けるのです。「これしかない!」と納得のできるまで。
書物には作者がいます。読書の目的は作者の意図を理解するということでしょう。「読書百遍意自ずから通ず」というのは、繰り返し読んでいれば作者の意図は伝わってくる、ということなのです。けれどもテストでは書物を丸ごと一冊読むということはありません。一部が切り取られて提示されているわけです。ですから作者の意図は、そもそも読み取れないと考えましょう。では何を読み取るのか。一部を切り取った人物の意図です。作問者というテストを作った人物の意図を読み取らなくてはならないのです。その作問者が書いた文章こそ、「設問」であり「選択肢」なのです。実に短い文章です。ここを百遍でも、「なぜ?」を繰り返しながら読み抜くのです。センター試験でも、小林秀雄と勝負するのではなく、小林秀雄の文章を出題した作問者との勝負だと考えて取り組まなければならなかったのですよ。君たちが高校生になった頃には、ぜひ理解しておいてほしいポイントなのです!
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「リベンジ」
「今回のテストは失敗してしまいました…。次回はリベンジします!」。教え子君がよく使うセリフですが(笑)、文化庁が実施した「国語に関する世論調査」でも、このリベンジをはじめとするカタカナ言葉の使用頻度が高まっていることが明らかになっています。「同じような意味の漢字とカタカナ言葉で、どちらを主に使いますか?」という調査項目があるのですが、リベンジは実に61%が「使う」と答えたそうです。それでは皆さんに逆に質問です。リベンジを使わずに、同じような意味を漢字で表すとすれば何になるでしょうか?正解は「雪辱」です。「せつじょく」と読みますよ。「そんな言葉使いません!」という声が聞こえてきそうです。それもそのはず、世代別に見ると30代以下のカテゴリーでは八割以上がリベンジを使うと答えているのですから。皆さんたちの世代にいたっては、その割合はもっと高いと考えていいでしょう。
筆者にしてみれば「リベンジっていうのは新語・流行語大賞に選ばれた、最近はやりの言い回しなんだよ」と説明したいところなんですが、「最近」といっても平成11年のことになるのですね。今から19年前…君たちはまだ生まれてもいないじゃないですか!「平成の怪物」と言われたプロ野球選手の松坂大輔投手がデビューしたのがこの年ですよ。勝っても負けても騒がれた松坂投手が、試合後のインタビューで頻繁に口にしたのがこのリベンジだったのです。「リベンジします!」と宣言して、みごと次の試合でプロ初完封勝利をあげたりしていました。当時の新聞記事では、まだリベンジという言葉が聞きなれないカタカナ語として扱われていて、わざわざ日本語訳をつけて紹介されていました。その訳語というのが「復讐」「報復」というものなのです。なんだかおどろおどろしい表現ですよね。でも本来、リベンジというのはそうした意味なのです。これをスポーツの世界、特に試合の勝敗に焦点をしぼって、一度敗れたという悔しさを次に勝利することで晴らす、という意味で使うようになったことが「新語・流行語」に選ばれた理由なのです。この意味でリベンジが浸透してくるにしたがって、新聞記事でも「復讐」ではなく「雪辱」という言葉で説明されるようになりました。
せっかくですから「雪辱」の使い方も覚えておきましょう。雪辱の「辱」については、難しい漢字ですが訓読みすると「辱(はずかし)められる」となり、意味は「はずかしい思いをさせられる」になります。次に「雪」ですが、これも訓読みすると「雪(そそ)ぐ」となり、意味は「洗い清める」になります。ですから「雪辱」で「恥ずかしい気持ちを拭い去る」という意味合いになるのです。ところで、「雪辱を果たす」と「雪辱を晴らす」、どちらが正しいと思いますか?正解は「雪辱を果たす」です。「晴らす」を使いたければ「屈辱を晴らす」が正しい用法になります。では「雪辱を晴らす」のどこが間違っているのでしょうか。ポイントは「意味の重複」になります。先ほど説明したように「雪辱」の「雪」には「拭い去る」という意味があり、これに「晴らす」という言葉をつなげてしまうと意味が重なってしまうのです。「馬から落馬しました」というように、同じことの繰り返しの表現となってしまい、これは「避けるべき恥ずかしい使い方」と認定されているのですよ。
さて、テストでリベンジを誓ってくれた教え子君ですが、結果が出て再び宣言してくれました。「この次のテストでは雪辱を果たします!」新しい言い回しを一つ覚えましたね(笑)。とりあえずは一歩前進したと認めましょう。
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「一夜漬け」
時間をかけてじっくりと学習に取り組みなさい!というアドバイスをするかと思ったら「一夜漬け」を取り上げるなんて。あ然とする皆さんの顔…よりも、あきれているご父母の顔が目に浮かびます。テストの前日に暗記するという、あの「一夜漬け」ですよ。今回は堂々と?一夜漬けの勧めを書いてみたいと思います。
定期テストの前日の夜に「テスト範囲をとにかく覚えまくる!」というイメージで語られてしまう一夜漬けです。どうして前日になるまで何の準備もしてこなかったの!と、ご父母の皆さんが顔をしかめるのは、この点だと思います。計画性がないのがダメなのよ。その場しのぎで切り抜けようとするから、無理が生じるんでしょ。泣きそうになっても自業自得!学習の姿勢としては全く評価できない、といった様子です。では一体どの点に勧められる部分があるというのでしょうか?
ズバリ「テストの直前に暗記する」という部分です。無限の記憶力を持つわけではない人間ですので、「間違いなく頭に入っている」という状態でテストに臨むためには、まさに直前の暗記が欠かせないからです。「でも、それでは直前まで、何の対策も準備もしなくていいということになってしまいませんか?」いいえ!十分に対策を重ねて、しっかりと準備をした上で、直前に暗記するのです。「え?しっかりと準備していたなら、暗記はいらないんじゃないですか?」違います!準備というのは、一夜漬けができるようになるためにこそ、積み重ねてくるものなのですよ。
どういうことでしょうか。実体験をもとに解説してみましょう。私の手元には三十年前のルーズリーフファイルがいまだに残っています。そこには「世界史」の論述対策用のメモ書きが記されています。東京大学の二次試験のための対策ノートです。入試問題の過去問や模擬試験・問題集の解説部分をピックアップして書き写したものです。一年をかけて、取り組んだ全ての問題について、書き写してあるのです。今からみても「よくこんなに書いたものだなぁ」と感心するほどですが、世界史にばかり時間をかけていたわけではありませんよ。苦手だった英語や数学はもちろん、得意だと思っていた国語についても、世界史以上に時間を割いて取り組まなくてはなりませんでしたから。それでも、ちょこちょこと書きためてきたノートは、一年間で膨大な量になりました。これを作るために使った時間を一年間分合計すれば、三百時間にもなるのではないかと思います。そしてこれこそ、一夜漬けのために作ったノートなのです。本番のテストのために、前日と当日、このノートを集中して3時間も読み込めば、実に三百時間分の学習効果がある!と思っていました。「百倍ノート」ですね。お守りのような効果も果たしていたのだと思います。ですから、このノートだけはいまだに手元にとってあるのです。
合否の差はほんのわずかなものです。一夜漬けしたかどうかで、この差が決まる!という意識も重要です。受験生に具体的なアドバイスをするならば、過去問の間違った箇所の解説をノートに書きためておくことをお勧めします。これを直前に読むのですよ。一夜漬けのための準備とはこういう意味なのでした。効果抜群ですよ!
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「スパイラル」
スパイラルという言葉、皆さん耳にしたことがあるでしょう。フィギュアスケートが好きな生徒さんなら「アラベスクスパイラル」といった技の名前を知っているのではないでしょうか。また、「デフレスパイラルを断ち切る!」と宣言して景気回復を政策に掲げているのは日本政府ですから、こうした表現がメディアで報道されているのに接したことはあるはずです。では、そもそもスパイラルって何でしょうか?
スパイラルとは、「螺旋(らせん)」を意味する言葉です。ぐるぐると渦巻状になっている形のことですね。そこから「連鎖的な変動」を意味することにもなります。先ほどのフィギュアスケートの例について説明すると、氷の上をくるくる回るだけではスパイラルとは言えません。片足を氷の上に、もう片方の足を自分の腰よりも高い位置にキープしたまま、曲線を描いて滑っていく。これがスパイラルです。浅田真央選手が、自分の頭よりも高い位置に足を上げて、華麗に氷の上を滑空していくさまを思い浮かべてください。また、政府の経済政策についても一言。デフレスパイラルとは、物価が下落することで企業の収益が悪化し、労働者の賃金が下がり、消費が冷え込んで物が売れなくなる結果、さらに物価が下落し…と連鎖していく経済状況のことです。この「負の連鎖」を断ち切り「デフレからの脱却」を掲げるのがアベノミクスですからね。社会の公民の勉強にもなりますね。
さて、今回スパイラルをここで取り上げたのは、まったく別の意図からです(笑)。これまでにも何度か登場した「暗記法」についてのテーマになります。教え子君が例によって相談に来ました。どうやったら効果的に暗記ができるのか、という内容です。「覚えなければならない重要事項については、テキストにマーカーで色をぬって目立たせて、頭に焼きつけようとしています。」いいですね!視覚的にうったえているわけですね。確かに効果的ですよ。さらに声に出して読んでみて聴覚的にもうったえると効果抜群です!「でも、結局、覚えられないんですよ…」と、なんだかあきらめ顔の教え子君。「何度も繰り返しているのに、頭に入らないんです。マーカーで引くのは、無駄なんでしょうか?」そこで筆者はたずねます。何箇所マークしたのか数字で把握していますか?「え?どういうことですか。何個マークしたかなんて数えていませんけど。」それでは効果が半減してしまいますよ。何度も繰り返したとしても、同じことを反復しているだけですから。「だって、同じテキストで、マークした同じところを繰り返しているんですから、反復で当たり前なんじゃないですか?」当たり前だと思い込んでしまうと、次のステップへの発展がなくなってしまうのですよ!「それは一体どういうことですか?説明してください!」
同じところをくるくる回っていてはダメなのです。それではサークル(=円)を描いているだけで、スパイラル(=螺旋)になりません。連鎖的な変動を引き起こすためには、ただ同じことを繰り返していてもダメだということです。一度目のターンで、一つひとつの項目をていねいに確認したら、二度目のターンでは、一度目とは違った次元で確認を行わなくてはならないのです。それが出来て初めてスパイラルになります。
「具体的にお願いします!」どうにもせっかちな教え子君です。今、覚えようとしているテキストの重要箇所をマークし終わりました。さて、次のステップは?「マークした箇所をあらためて読み直したり、ノートに書き写したりします。」いいですね。それでいいですよ。で、何箇所マークしたのか数えていないんですか?「はい。目で見て、何箇所くらいマークしたのかは、大体把握しているとは思いますが。」それではダメなのです。必ず何箇所マークしたのか、数えてください!少なければ全部でいくつか。多い場合にでも、1ページごとに何箇所あったのか、とにかく数えて下さい。「何のためにですか?」テキストを閉じて、見えないようにしてから、マークした数だけ、全ての重要事項を口にしてみなければならないからです。あるいは、書き出してみなければならないからです。
一度目のターンで一つひとつの項目をしっかりと確認しました。その作業は、たとえるなら森の中の木を一本ずつ確認していくようなものです。二度目のターンでは「何箇所チェックしたのか数を確認しろ!」と言いました。それはたとえるなら、森の中の木の数を把握して、森全体の様子をチェックするという作業です。「木を見て森を見ず」ということわざがありますが、この全体を見渡すという「手間」をかけてこその、2ターン目なのです。テキストを閉じて、「マークしたのは10箇所だから、今から10個、テキストを見ないで言ってみよう!」という流れでチェックしなくてはならないのです。時間がたってから復習する時にでも、「10個」という数を把握していれば、とにかく10個思い出さなくてはならないことがはっきりとしています。この抽象化が、スパイラルの極意なのですよ!
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「盗人にも三分の理」
「悪事をはたらくにも相応の理屈はある」という意味のことわざになります。泥棒が盗みをするのにも、それなりの理由があるというのです。言いかえれば、どんなことにでも理屈をつけようと思えばつけられるということになります。
ちなみに「三分」というのはどの程度の割合になるのかお分かりでしょうか?割合を表す言葉として「割」「分」「厘」「毛」という漢字が当てられているのはご存知でしょう。全体を「1」とした場合、「割」=「0.1」「分」=「0.01」という意味になります。野球の打率などで見かける表現ですよね。「イチローの打率が3割7分5厘にまで上がった!」といった具合に使われます。そうすると「三分の理」というのは、全体を1として0.03、パーセントにして3%に過ぎないのでしょうか?
実は、日常会話では「割」の意味で「分」を使うことも多いのです。例えば次のような表現を考えてみて下さい。「桜が五分咲き」「腹八分」「九分九厘間違いない」。これらは「満開の5%」「満腹の8%」「9.9%は確実」という意味で使われているわけではありませんよね。「半分は咲いている」「満腹には少し足りない」「ほぼ間違いない」という意味ですから。「三分の理」も「30%の理」があるという意味になるのです。
また、「盗人にも」という言い方には、「誰の目にも明らかな悪人でさえ」というニュアンスが込められています。その盗人ですら、「100%の悪人ではありえない」ということが、ここでは「人間観」「人生観」として表現されているのです。ものごとを一面的に捉えることの危険性を主張しているとも言えます。人間は多面的であり、人生には驚くほど細かい複雑な事情が絡んでいるものだということ。これはある程度人生経験を積んだオトナであれば身にしみて理解している内容です。だからこそ、「オトナの判断」というものは、どんな問題についても軽率にほめたり、けなしたりはしないのです。結論は留保しておき、時間をかけてゆっくりと様子を見ることを優先します。皆さんからすれば「オトナって、ずるい!」ということになりそうですが、これこそが常識的な判断力というものなのです。
皆さんにとっても、この「結論に直ぐにはとびつかない!」という態度は役に立ちますよ。具体的には国語の読解問題に取り組む際の姿勢として。とりわけ、物語文の登場人物の「心情分析」を行う際には忘れてはならないポイントであると言えるでしょう。物語には主人公を含めて、様々な登場人物が現れます。英語でいうと「キャラクター」ですね。「キャラ」と略して使うことも多いようです。また最近では、グループ内での振舞い方の「役割」を意味する言葉として「キャラ」という表現が使われているというのは、むしろ皆さん方のほうがよくご存知ですね。「まじめキャラ」だとか「へたれキャラ」、「いやしキャラ」などといった用法ですよね。これを論説文風に説明すると「コミュニケーションの場における振舞い方に関する類型的な役割」ということになります。
もちろん「盗人キャラ」なんてものは身近なグループ内にはあってはならない(笑)わけですが、物語文に登場する人物の「類型的な役割」ということについては、読解の際にも注意しなくてはならない内容です。特に、入試問題等で部分的に切り取られた小説の一節から、登場人物の性格の理解や心理状態の把握を求められるという場合には、まさにそこで交わしている会話=コミュニケーションの場における振る舞い方でもって、推測するしかないわけですから。ある程度の類型的な分類に基づく判断は必要でしょう。ただし、あくまでも「ある程度」です。むしろその先の「類型をはみ出る」部分にこそ、人物像を描き出す際の肝があると考えるべきなのです!理不尽な振る舞いを繰り返す「盗人キャラ」が登場した場合を考えてみましょう。物語的に盛り上がる箇所というのは、「盗人キャラ」が見せる、ほんの一部の理にかなった行動であるはずです。まさに「盗人にも三分の理」が描かれているシーンであるわけです。
まじめだ、と思われている人間でも、100%まじめなだけで人生を過ごしているわけではないということ。へたれだ、と思われている人でも、人生のどんな場面で大胆な行動に出るかはわからないということ。いやし系の人物だと思われていた人が、裏ではとんでもない毒舌の持ち主だったということが発覚したりすること。それが人生なのです。
ですから、「まじめキャラにも三分の軽薄」「へたれキャラにも三分の勇気」「いやしキャラにも三分の悪意」といったように、100%の「まじめ」「へたれ」「いやし」はありえないという認識で、登場人物の性格把握を行ってくださいね。ポイントは「人間の多面性」と「人生の複雑さ」ですよ。
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「防衛本能」
教え子君のお母様から相談がありました。「ウチの子なんですけれども、できた!できた!って、テストの手応えは報告してくれるのですが、いざ返却された答案を見せてもらうと全然点数がとれていなくて…」。世のお母様方共通のお悩みともいえる怪奇現象ですね(笑)。お母様にしてみれば、「いい加減なことばかり言って、テストのことを真剣に考えていないから、ウソの報告をしても平気で、ごまかしてばかりいる!」と怒りたくなるのでしょうし、教え子君にしてみれば「できた!と思ったから素直にできたって言っているだけで、ウソでもなんでもない!」と、悪気はないし、むしろ自分のことを信用していないのか!と悔しい気持ちにすらなっていることでしょう。まあ、両者の言い分が折り合わないからこそ、私のところに相談に来たのでしょうからね。ここは第三者にお任せくださいませ。
実際の答案を見せてもらったのですが、お母様の言い分はもちろんですが、教え子君の言い分にも、「そういうことか」と理解できるところがありました。つまり、どちらにも理屈があった上で発言していることが分かったのです。お母様の言い分の方は皆さんにも簡単に理解できますよね。「全然点数がとれていない…」という話ですから、実際に数字になって現れている事実があります。例えばテストの平均点が80点だったとしましょう。それに対して、教え子君の点数が70点だったとしたら、「点数がとれていない」と指摘することは間違っていませんよね。これは分かります。では教え子君の「できた!できた!」という報告は何だったのでしょうか?答案を見せてもらって気づきました。確かにできているのです。でも点数は70点しか取れていません。さてこれは一体どういうことでしょうか?
教え子君の答案の特徴はこうです。解答を書き込んだ部分はほぼ全問正解なのです!バツになっているところは空欄で提出してしまっています。教え子君にしてみれば「書いたところは全部できている」という意味で、テストの手応えを報告したというだけなのです。それでもお母様は納得されませんよね。「先生!困ります。それはできていないということでしょう!」と、教え子君の理屈を支持しているようにみえる私に対して、お母様の怒りの矛先が向いてきているようです。「これはですね、人間の習性ともいえるので、一概にダメ出しはできないのですよ。いわば防衛本能のようなものでして…」という説明にお母様はさらに困惑されているようです。
詳しく説明したいと思います。ここでいう「防衛本能」というのは、自分の身を守るためにとる行動様式だという意味で理解しておいて下さい。人間誰しも失敗をおそれます。けれどもミスをしない人間なんて存在しません。それでもノーミスでクリアしたい!という思いはあります。そうするとどうなるのか。ミスをしない唯一の方法があります。それは、チャレンジをしないということです。やってみなければいいのです。「失敗したくない!」という自分を守る気持ちが強くなると、そもそもやってみようとしなくなります。「防衛本能」と表現したのは、そういう意味です。教え子君にしてみれば、「答案を書いても、どうせ間違っているくらいなら、書かないでおこう」という結論に至るわけです。
「答案を書かないでどうやって得点するんですか!」というお母様の指摘はもっともです。「間違えた答えを書かなかった」というだけで「テストができなかった」という事実は変わりません。私も教え子君に問題がないと言っているわけではありませんからね。安心してくださいませ、お母様。ただ、ちょっと大げさに「防衛本能」と表現したことには訳があります。中学生の頃の特徴として「極端にミスをおそれる」という傾向があるのです。失敗したくないという気持ちが強すぎて、チャレンジを避けてしまう。逃げちゃダメだと分かっていても、ついそうしてしまう。「本能」と表現した意味はそこにあります。
ですから、それぞれにアドバイスが必要になるのです。先ずはお母様に。思春期のお子様のメンタリティーは不安定です。ゆれる思いを常に抱えています。大人の一般常識で追いつめてしまっては、逆効果になります。お母様の「正論」を伝えたら、あとはできるだけ本人に任せてあげてください。信用してあげてくださいね。そして点数を上げるのは、われわれにお任せください!
教え子君に対しては、塾の先生だからできる強烈な指摘があります。「これでは合格できない!」というものです。「本番で失敗したくなければ、今のうちにかける恥はかいておけ!」というアドバイスのもと、「練習でこそ全力でミスしろ!」と実践させます。自分に言い訳をしないで自分に足りないところを見つめること。それは成長に欠かせない要素ですからね
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「一喜一憂」
「情況が変化するたびに、喜んだり、心配したりすること」を意味する四字熟語になります。「喜」と「憂」と、正反対の気持ちを表す漢字を組合わせることで、感情の大きなブレを表現しています。「喜」は、人間的な感情の代表としてあらわされる「喜怒哀楽」=(喜び・怒り・悲しみ・楽しみ)の筆頭として?登場していますよね。「喜色満面」なんていう四字熟語も押さえておいてください。本当にうれしそうな顔つきを表します。ちなみに七十七歳という長寿を祝うのは「喜寿」と呼ばれます。これはラッキーセブンが並んだから「喜んで」いるのではなく、「喜」の草書体が「七七」に通じているからですよ。
一方の「憂」ですが、訓読みは「憂(うれ)える」。悪い結果になりはしないかと心配する、という意味です。有名な「杞憂」という故事成語がありますよね。昔、中国の杞という国に住んでいたある男が、「天が崩れ落ちてくるのではないか」と心配しはじめ、食事ものどを通らず、夜も眠れなくなってしまった…というオハナシ。「杞憂」とは、取り越し苦労をすること、無用の心配をすることを意味し、「杞人の憂(うれい)」ともいいます。
さて「一喜一憂」ですが、用法としての注意点は、「一喜一憂しないように」と、「そうなってはいけない」という意味合いで使われることが多い、ということです。
受験生にとって、それこそ耳にたこができるほど繰り返し聞かされているだろう「アドバイス」に「模試の結果に一喜一憂しないように」というものがあるでしょう。「結果が良かったからといって浮かれない!気を引き締めろ!間違えた問題は見直したのか!」「結果が悪かったからといって落ち込まない!本番じゃないんだ。事前に弱点が分かってラッキーだと思え!」といった叱咤激励ですね。
些細なことで心が揺れ動く小心さを表す場合に用いられることが多いことから、「しないように」というアドバイスにつながることになるわけですが、当事者は「些細なこと」だとは思っていないから、「心が揺れ動く」わけですよね。模試の例で言うならば、試験を受けた当事者(君たちのことですね)が、「模試の結果なんて些細なこと!」と笑い飛ばすというのは…それはそれで、「少しは気にしろ!」と塾講師の立場から言いたくもなります。
オトナの視点としては、君たちに対して、当事者でもない、部外者としての立場でもない、いわば「巻き込まれたもの」としての立場にある人たちへの配慮を身につけてほしいと思いますね。君たちの家族や先生たちの立場ですよ!君たちの模試の結果で、どれほど一喜一憂しているか。「かわりにテストを受けてやれるならどんなに楽か」と思っている人たちがいることを十分に意識して、テストは頑張ってください!えっ、「背負いたくない。重い!」って(笑)。
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「予知能力」
「未来におこる出来事を、あらかじめ知ることのできる能力」これが予知能力ですよね。皆さんも「期末テストには何が出題されるのだろう?あ〜ぁ、問題を夢で見ることができたらいいのに〜」なんて思ったことはありませんか?「アベノミクスでこんなに株価が上昇するんだったら、安いときに買っておけばよかった!」と、後の祭りを嘆くオジサンたちも「予知能力でもあればなぁ〜」と、キミたちとかわらない思いを抱いていることでしょう(笑)。このブログでは「将来のことを思い悩んでもしかたがない」というお話をしたこともあります。なぜならば「誰にも未来のことはわからないのだから」という理屈でしたね。すると「予知能力」なんて夢想するだけ時間のむだ!という結論になりそうなのですが…ここで告白してしまいましょう!私、田中が東京大学に合格できたのは、予知能力のおかげであると。
東京大学文系の入学試験では数学の問題が四つだけ出題されます。たった四問です。一問20点で80点満点のテスト。試験時間は百分。解答用紙のスペースが一問ごとにB4の紙一枚分ずつ。一問につき30分近く時間をかけながら、君たちが使うノートよりも大きな真っ白い解答用紙に、もくもくと答案を書きつけていかなくてはならないのです。
センター試験の得点を除いた、東大文系二次試験の「合格最低点」は50%台。六割も得点できれば十分に合格できるのです。しかも、あくまで各試験科目の「合計点」での合格ラインの決定になりますので、英語はもちろん国語や社会も得意としていて点数を稼ぐことができるというなら、数学は極端なハナシ0点でも、合格することは可能であるということになります。ただしこれは「皮算用」での話。数学80点中の六割、50点近くを他の得意科目でカバーするなんて芸当は、本当に至難の業になります。
私も文学部進学者の例にもれず?数学を大の苦手としておりました。実際に東大模試のたぐいでは0点でした…とまでは言いませんが、四問ある中のどの問題も「答えを出せない」という状況が当たり前だったのです。お情けの「部分点」をもらうのが精一杯でした。ですから入試本番前の意気込みは「一問でもいいから解きたい!」というものでした。20点取れれば他の科目でカバーして合格ラインに乗せてみせる!という悲壮な覚悟で臨んだものです。今から四半世紀も前のことになりますけどね。
結果はというと「二問完答・一問半解・一問白紙」という、模擬試験では一度もできなかった「完答」(大問一題を完全に解ききること)を成し遂げたのでした。理由は簡単。予知能力によって準備していた問題が一問、そっくりそのまま出題されたからです!一問完答できたことで気持ちに余裕がうまれ、気楽に取り組んだもう一問も完答してしまい、あわよくばもう一問!と手を出した問題も、途中までの部分点を獲得できる段階まで解き進めることができました。残る一問は、最初に見た瞬間から「これは解けない。捨てる!」という難問でしたから、百分の試験時間で、自分にとって最高の答案を作り上げることができた!という実感がありました。
東大が入試結果を情報公開するようになる随分前の話ですから、実際に数学で何点取れていたのかは、わかりません。けれども、最初に完答できた数学の一問がなければ、合格することはできなかっただろうと思います。その命運を分けた一問について、予知能力によって準備していたからこそ、解くことのできた問題だった!と言いたいのです。
皆さんのいぶかしがる表情が目に浮かびます。「まゆつば物だなぁ〜」とね。そりゃ、夢で問題を見たわけではありませんからね。「じゃあ、どこで問題をあらかじめ見ていたの!」って?それは「数学の授業」で習った問題だったのですよ。「なにそれ?予知でもなんでもないじゃない!」という声が聞こえてきそうです。「問題を当てた先生がいるっていうこと?」「その先生に予知能力があるっていうこと?」「入試問題研究をしていた数学の先生が立派だったっていうこと?」まぁ、そうまくしたてないでください。君たちにも当てはまる予知能力の実際について、お話ししましょう。
皆さんはこれまでに数学の問題を「何問」解いてきましたか?「数え切れない」と言えるのではないでしょうか。数学の授業で扱った問題、参考書や問題集で取り組んだ問題、それこそ星の数ほどの問題をこなしてきているわけですよね。テストには「出題範囲」が存在します。ですからテストとは、必ず「やったことがある問題」が出題されるものなのです。つまり、受験生は「やったこと」を「再現」できればいいだけなのです。
「そんなこと言ったって、星の数ほどある問題のうち、どれがテストに出るかわからないじゃない!」その通りです。だからこそ、ここに予知能力が必要となるのです。「そんな都合のいいことがあるわけないじゃない!」と思っている皆さん。皆さんにもあるのです!予知能力が!
「この問題は難しい!いやだなぁ、テストに出たら。」これが「予知」の中身です。皆さんには分かっているんですよ。「この問題が出題される!」っていうことが。「出たらいやだなぁ」は「テストに出る!」という予知能力が働いている証拠です(笑)。このことに気づいたら「勝ち」なんです。あとは再現できるまで覚えてしまうだけなんですから!だまされたと思ってやってみてください。「いやだ、と感じたら、これこそがテストに出る!と思い直して、本気で取り組む」この積み重ねが習慣となり、合格を呼び込むのです!皆さんもこの「勝ち」パターンを習慣化してくださいね。桁違いの結果が待っていることになりますから。
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「ボキャブラリー」
「語彙力」を意味する英語ですね。そもそも「語彙力」の意味が難しいですか?「ごいりょく」と読みます。「語彙」とは辞書的には「語の総体」という説明がなされますが、余計意味が分かりにくいですよね(笑)。「言葉の使い方、表現」という理解で構いません。具体的には「用語集」というニュアンスですけどね。「何々についての語彙」という意味で「何々の用語集」となるわけです。「ボキャブラリーが貧困で」という言い回しを耳にしたこともあるでしょう。「ボキャ貧」と略されることもあるようです。「私はボキャ貧で…」と言った場合には、謙遜の場合もあるでしょうが、多くは「言葉を知らない」というギブアップ宣言です。皆さん方受験生は決して「ボキャ貧」を認めないでくださいね!
分かりきったことのようですが、いまだに頓珍漢なことを質問に来る生徒がいるものですから、あえて取り上げてみました。その生徒いわく「入試国語での漢字の配点なんて、わずかなものですから、漢字の練習に時間をかけるより、読解に力を注いだほうがいいですよね?」明らかに、漢字を勉強していない、という言い訳の後押しをしてもらいたくて、質問に来ているわけです。私のところに来たのが運のツキで(笑)、とどめを刺すように告げるのでした。「漢字、とりわけ熟語が書けなきゃ、話にならない!」と。「漢字の配点は低い」などと知ったような口をきく生徒には、容赦しません。「入試本番で漢字一問が答えられなかった時の精神的なダメージをお前は知らない!」と、たたみかけます。読解問題と違って、「出来たか、出来なかったか」が、その場でハッキリと分かる漢字問題です。入試本番の真っ最中に「出来なかった」という後悔を引きずりながら、他の読解問題なんか、まともな神経で解けるわけがないだろう!と脅します。点数以上に、精神面での「安定剤」としても、漢字問題での得点は極めて重要なのです。逆に、落とした場合の「不安感」は計り知れない、と知るべきです。
ここまで言えば、「間違っていました、ごめんなさい」となるものですが、それでも「たかが漢字」と、高をくくっている生徒も多いのではないか?と思います。国語の答案の質を決める最大の要素こそ「ボキャブラリー」だと知るべきです。漢字熟語を使いこなして、はじめて答案は書けるものなのです。私が実際に東大入試で使った「熟語」を紹介してみましょう。「異なる場へ重層的に参加を繰り返しながら、他者と関わり、自らの世界を広げ、より多様な人々と呼応して学んでいく」という姿勢を表現したい場合に、なんと言えばいいのか?これを「学びの交響」という一言でまとめることができるのですよ。単純な私は、この「交響」という熟語を思いついた時点で、「受かった!」と思ったくらいです。語彙力が答案のレベルを決定づけるのです。ことほどさように、ボキャブラリーは重要なんですよ!
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皆さん!夏休みですね!…なんて、「休み」であることを強調したりすると、「何のんきなことを言っているの!塾は休みじゃないって!」と、夏期講習に通っている皆さんには、速攻でツッコミを入れられそうですが…もちろん皆さんが頑張っていることは承知していますよ。なにも、皆さん!ヒマですね!と、挑発しようと思っているのではありませんからね。それでもあえて「夏休み」と声に出してみたのは、「学校が休みだ!」ということを言いたかったのですよ、単純に。普段であれば、朝から夕方まで学校に通っているワケですから、どうしても自分の自由になる時間が足りないことでしょう。「時間さえあれば、アレもコレも挑戦してみたいのに!」と思い描いていたことがあるのではないですか?夏休みの魅力は、なんといってもこの自由な時間だと思いますからね。
さて、実際に学校が休みになって数週間が過ぎようとしていますが、皆さんいかがですか?暑さのせいもあるでしょうが、集中できずにいて、思ったことをやり切れずに終わってしまった日はありませんでしたか?夏休みの初めに掲げた壮大な目標(「英語を究めるぞ!」「数学を無敵にするぞ!」などなど)に向けて、「必ずやり遂げてみせる!」と、スタートさせたのは良かったのですが…あれ?あれ?続かない…。結局「三日坊主」で終了してしまった計画=未完のプロジェクトはありませんか?そこで取り上げてみたのが今回の四字熟語、「三日坊主」です。意味は皆さんご存知でしょう。「あきっぽくて、長続きがしないこと」ですよね。ではなぜ「三日」なのでしょうか?そしてなぜまた「坊主」なのでしょうか?順に考えてみましょう。
まずは「坊主」から。昔は、人づき合いでトラブルをおこしたり、生活が苦しくなったりすると、お寺に逃げ込んでお坊さんになろうとすることがありました。お坊さんになることを「出家(しゅっけ)」といいますが、これは俗世間から離れたお寺の世界に入ることで、これまでの「家」を中心とした人間関係を断ち切ることを意味しました。世間のしがらみから逃れることを目的として、また、お寺に入れば最低限の食事は与えられて食べ物にだけは困らなくてすむことからも、そうした「にわか坊主」になろうという人が結構いたらしいのです。しかし、そんな心根でにわか坊主になっても、僧侶としての修業というのは朝早くからのお勤めにはじまり、規則正しい生活をおくらねばならず、また食事も粗食です。つい、衝動的に頭を丸めてお坊さんを志した人でもその実態にふれると並大抵の心構えではとても長続きしません。こういう人は三日もたたないうちに音をあげて俗界にもどってしまうのが常です。そこから「三日坊主」という言葉が生まれたということです。ちなみに「お坊さんが僧籍をはなれて俗人にかえる」という意味をあらわす熟語もありますよ。「還俗(げんぞく)」と言いますからね。「出家」と「還俗」は、セットで覚えていてください。古典の知識では重要事項なんですよ。
次に「三日」についてですが、皆さん「三日は三日間という意味でしょ。他に何かあるとでも?」というカンジでしょうか。でもそこを一緒に踏み込んで考えてみましょうよ。「あっという間に」という意味で「三日」という言葉が使われることがあります。たとえば「三日見ぬ間の桜」ということわざがありますが、これは「世の中の移り変わりが激しいことのたとえ」として使われ、世の中は三日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ、という文字通りの意味です。また「三日天下」という四字熟語もご存知でしょうか。権力を握っている期間が、きわめて短いことを表します。戦国時代、明智光秀が本能寺で織田信長を討って天下をとりましたが、十数日で豊臣秀吉に討たれてしまったという史実によります。でも、短い期間を表すだけなら、二日でも、一日でもいいとは思いませんか?「一日天下」でよさそうなものでしょう?「たった一日」の方が、あっという間という気がしますから。ところがそれだと「本当に天下をとったのか?」という疑問符がついてしまうのです。とすると、「三日間は頑張った」ということが大事な意味を持つことになるのですね。そう、三日というのは実は長いのです!桜も、三日間という長い間は咲いていない、という意味になるのです。
ですから「三日坊主」についても、朝・昼・晩の僧侶の生活を三回繰り返すことで、自分に出来るか出来ないかを判断した結果、というふうに考えてみてください。何でも三回経験すると、ものごとが見えてくるものなのです。「石の上にも三年」ということわざにしても、何か新しいことをはじめて春夏秋冬の季節が三回めぐる間に、おのずと分かることがあるということでしょう。皆さんも、「三日坊主」で終わってしまった…と未完のプロジェクトを嘆く前に、「本当に三日間、集中して取組むことができたのか?」を反省してみてください。多くの場合、三日間も続いていませんから。もう一度言います。三日というのは実は長いのです。ぜひ、夏休み中に「三日」続けて何かをやり遂げてください。それだけでも大きな成果が得られるでしょう!
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「依怙贔屓(えこひいき)」
教え子から、「えこひいき」って「環境に優しい」って意味ですか?と質問されたときには、「うまいこと言うね、座布団一枚!」と返そうかと思ったのですが…どうも質問した本人は真面目に「エコ」+「ひいき」だと思っていた様子でした。漢字で書くと「依怙贔屓」となりますので、その意味はお分かりでしょう…って難しいですよね(笑)。意味のほうがよく知られています。「自分の気に入っている者や、関係のある者だけの肩をもつこと」という内容ですよね。「あの先生は怖いけれども、えこひいきだけはしないから、生徒から信頼されている」なんていう使い方で、おなじみですよね。
「依怙」という言葉は、もともとは仏教用語で「神仏におすがりすること」という意味なのですが…ここではその本来の意味は薄れています。では、どのように理解すればいいのでしょう?「依怙地(えこじ・いこじ)になる」という慣用表現から想像がつくのではないでしょうか。「かたくなに意地を張ること。我を張ること」、という意味ですから、「依怙」には「自分だけの」というニュアンスがありそうだと気づいてくださいね。
では教え子が言った「エコ」とは、どういう意味でしょうか?「エコロジー(ecology)」の略語ですよね。本来は生態系の構造と機能を明らかにしようとする「生態学」という意味です。そこから、「生活環境保護」や「自然保護運動」も指すことになりました。
ですから本当に「エコひいき」なる言葉は存在するのです。環境省がモデル事業として地方自治体や企業と協力して様々な取り組みを行っているのですが、たとえば「エコひいきカード」の発行という事業があります。地域内の商店、飲食店、ホテル、公共交通機関等で省エネ商品・サービスの購入・利用または省エネ行動をすることによりポイントがたまるというシステムです。満点まで集めると、500円の金券として商品の購入ができるものです。教え子の感覚も、環境省レベルということでしょうか。それとも、環境省のレベルが…いえいえ、広く市民の理解を得るためのネーミングの工夫であると、考えましょう。オトナの理解ですね(笑)。